2017 . 2 . 9

美容医療の神髄-歴史秘話第77話-”口頭伝承”:美容整形屋と美容形成外科医”その53”「相模原市から隣の大和市へ編7:美容外科・形成外科学」

私が医師として14〜15年次に出向した大和徳洲会病院形成外科・美容外科部長時代の医療経験のエピソードも今回まで続けます。これまで、4つ掲載しました。残りは番外編で長男の手術も恐い思いをしました。そして思い出した11年次の症例も説明します。続けて研修制度の説明もしていきます。その経緯から、病院そのものの運営にも関わっていきます。

長男の手術とは、扁桃腺摘出手術のことですが、登場するの耳鼻科医と私、そして管理栄養士長です。大学の後輩の耳鼻科医は仲がよく、病院の医局は狭くてデスクを接していたのでよく相談をしたし、片隅にソファーがあってお茶を飲みながら世間話しもしました。午前中は誰でも外来診療が忙しいのですが、午後は手術枠がない時の私は、学会関係の申請書類を書いているか座学しているかの他は駄弁っていたのでした。ある時長男がよく風邪をひくし、鼻が詰まるので何とかならないかと相談したら、耳鼻科医はそれは典型的にA&T手術ですよと薦めてくれました。アデノイドと扁桃腺切除です。

まず全身麻酔手術の準備として、採血検査をするのですが、当時小学5年生の長男は血を見て失神しました。アアあ、彼は医師には向いていない事が判明しました。それでも手術を受ける事になりました。当然私も立ち会いますが、その前の朝の予備麻酔注射は私が買って出ました。すると痛がるのなんのって、その後何年も文句を云われ続けられました。そういえば麻酔の全投薬なんか看護婦さんに任せていて今まで一度もした事なかった。ゴメン!。全身麻酔の手術ですから、当然私も立ち会いました。手術の後ろからじっと見られていて耳鼻科医はあがったかもしれません。手つきがぎこちなかったのを覚えています。止血も大胆で私が「そんなもの?」と訊くも耳鼻科医は「ここは止まります。」と平然の振りをして終えました。私は次に手術を控えていたので、帰室までは立ち会えませんでした。夕方には見舞いました。翌日からも毎日、時間があればといっても主に夕方からですが、可愛い我が子と過ごしました。ベッドサイドにただ居るだけですが、時には「マンガ買って来てよお。」とか頼まれて、病院の向かいのコンビ二に買いに走ったり、何冊も買って来て読み回ししたりして二人の時間を過ごしました。時に一緒に居眠りもしました。病院の関係者が入院すると家族も我がままなのですね。

ところが術後三日目に後出血しました。たらたらたらしていました。そういえば私も18歳の時に鼻の手術を受けたのですが三日目に後出血しました。耳鼻科の手術にはよくある事で、術後日時も同じだったので親子だなあとか妙に感動したのは不謹慎ですね。ガーゼ咬んでいたら止まりましたが、つい数ヶ月前に面倒な症例に病院全体で立ち向かう羽目になったので怖くないと言えばウソになります。それが親心と言うものです。こうなると常に私が看護したくなるものです。

そこへ管理栄養士長が訪問しました。「再出血を防ぐ為に食べ物を工夫しましょう。まずは軟らかいものからで、食事中もよーく見ていきながら変えていって上げますよ。」と買いって、ずっと付き添いみたいにしていてくれました。なんか私の長男だから優遇されているみたいで、気恥ずかしかったのを覚えています。でもそれには訳があります。管理栄養士長は院長が懇意にしている女性で、一種の秘書みたいな立場でした。まあ美人で、人当たりもいい。やや大柄なのは栄養士で食べる職業ですから別に普通です。そういえばその後用事があって院長室へ行くと、必ず彼女が在室していて、時には接触していました。関係は不明です。何故私がその後院長室に出入りするのかの話しは後段に回します。

とにかく、小学性高学年の長男は管理栄養士女史に話し相手になってもらい可愛いがられたようです。素麺からスイカから消化がいい栄養価も考えたものを給仕してもらい、一時は口に運んでもらったのです。あとで私に「あの先生優しくしてくれて嬉しかった。」とか言っていました。院長サイドの人ですから、私を懐柔するために周りから攻める策となるいいチャンスとなった訳です。長男は再出血も来たさずにその後順調に経過していき、無事退院しました。ここでその話しは終えて、病院の運営の話は次回とします。

思いだした11年目の医療経験談は簡単に書いていきます。何を記したいかというと、やはり医師はできることを選ぶべきだということです。一瞬の決意の遅れが一日中の大騒ぎになり、生命の危機に繋がることがあるという事例です。茅ヶ崎徳洲会総合病院には7,8年次と11年次に出向しましたが。9,10年次は2年上の医師が行っていました。院内でその評判があまりよくなく、私が11年次に戻った際にはF院長が待ち侘びていたように遇してくれました。彼は既に60歳を過ぎていましたが、もちろん徳洲会プロパーではないのですが、大学(確か北大)医局から飛び出してきたいわゆるアウトサイダーを自認する医師ですが、何しろ臨床的にもできる人で、でも優しくて厳しい先生でした。でも臨床面をフェイドアウトして院長業にシフトするべき年頃です。後進も育てなければなりません。その前年に医長を雇いました。彼は徳洲会の新人から入ったのではないのですが、医局をはみ出して徳洲会に来た様です。なんか人間的に頼りない感じもしました。ある時難しい出産=前置胎盤で早期剥離を単独でしたのです。帝王切開にするべきだった様です。とにかく後出血が止まらなくなったのです。羊水には溶血因子が入っているので、出だしたら止まり難く、このままでは胎児もやばい。かといってそのままでは切れないから出せない。まず輸血してたまる状況にしなければならなくなりました。それも新鮮血でなければなりません。赤血球は必要だし、止血因子も必要だからです。家族は型が合わないので、院内のスタッフから取り急ぎ募りました。院内放送があったのは夕方です。私は手術が終わって手が空いていたので駆けつけました。大騒ぎです。スタッフは型が判っているので後は調べて確認して取りまくるのです。院長も血相を変えて血液を採っています。私は院長に声をかけました。「手伝います。」院長は「とにかく新鮮血がないとステル。アイツが早く手を打つべきだったんだが、とにかくみんなで頑張って救おう!」状況が切迫しているのは理解できました。この言葉にある様に、手を打つのが遅かったと認識していた様です。でも院長は産婦人科部長でもあり、新任の医長は部下ですから、とにかく患者を救いたいし、病院の為にもリカバリーしたい。こんな時人間性が出ます。院長は院内のスタッフを総動員して助けたい。ところが件の医長はそこに居ませんでした。院長に追い出されたのでもありましょうが、後で周りに聴いたら、そこで取り戻そうと頑張る人間ではなかった様です。しかもやはり、一瞬の躊躇が招いた事だった様です。要するに早く助けを呼べば良かったのです。医療には後になってタラレバが付き物です。患者さんは個体差があり臨機応変に対処が求められるのです。タイミングと適切性が重要ですが、時に小さな躊躇が大騒ぎになり、周囲に犠牲(輸血採血は犠牲です。スタッフが時間を取られるのは他の患者さんに取って犠牲です。)を伴わせる事になることを私も心に刻みました。

この何回か、他科とのコラボレーションを始めとした医療経験談を長々と書いて来ました。この後も医療経験談は思い出したら載せます。でもたぶん今後は形成外科・美容外科の話しが主になって来るでしょう。

ところで、医療制度の根幹を為す研修制度は2004年に施行されますが、準備段階としてこの年に大和徳洲会病院に出向した際に院内臨床研修委員会が発足しました。何故か私が副委員長に任命されました。更に院内の内紛ともいえる人事的問題が生じます。

当時は北里大学形成外科美容外科医局からの出向の状況でした。だから、権威的にに大学でなければできない様なレベルアップの仕上げを要請されました。医学博士の審査を受けて合格し、美容外科学会専門医の取得に取り組みます。

ところで眼瞼形成術の臨床経験は学会活動にも役立ちました。父との交流にもです。JSASでの活動はこの年が最高潮でした。預かっていたを十仁札幌院を辞めても、JSASへのスタンス移動は継続していました。日本美容外科医師会でのクーデターはその翌年のことでした。その辺りから再開します。さらにアルバイト人生は、教授も巻き込み進行します。銀座美容外科で非常勤での診療も継続していましたが、父も体力が落ちて来たので、継承について検討し始めましたが、障害がありました。この辺りの話しも次回以降にします。