2017 . 3 . 23

美容医療の神髄-歴史秘話第83話-”口頭伝承”:美容整形屋と美容形成外科医”その58”「銀座から大和市へ、そして地方都市へ12:美容外科医であり形成外科学医」

その後の私の行く末を決めるアルバイト先を得ます。さらにアルバイト人生は、教授も巻き込み進行します。それが私の進路となります。銀座美容外科で非常勤での診療も継続していました。父も体力が落ちて来たので、継承について検討し始めましたが、その際大きな障害がありました。今回は、いよいよ16年目以降への布石となるアルバイトの件です。

そして北里大学形成外科・美容外科医局から退局します。もっとも、医局制度とは公的な団体ではなく、教授が責任を持つ講師陣とレジデントの教育、研究、診療の集まりです。大学病院に於いては、科目ごとに診療の責任を持つ。卒前教育は科目ごとに時間割が割り当てられるし、卒後教育は診療に於いてまねて学んでいく徒弟制度で、自分で座学するのは、未経験の症例が来て切羽詰まった際に論文を読み漁るくらいです。研究は学会発表から始まって、徐々にレベルアップしていき、最終的には国際的に読まれる論文を書き、医学博士号を授与されるまででした。

私は診療が好きでした。時間的には90%以上を費やしてきました。教授にも「お前は臨床家だ。」と宣告されました。そりゃ開業医の継嗣ですからね。もっとも簡単に継承しない理由もありました。上にも書いた経済的な、人間関係的な障害です。ですから大学医局に於いて15年間臨床診療に邁進させてくれた医局制度に感謝します。もちろんその後も今も、診療行為として患者さんとコミュニケーションして治療(主に手術と注射)して悦ばれる毎日です。

そして教育面ですが、レジデント時代は受ける側でしたが、学会専門医を取り、関連病院でレジデントを教育するようになってからは結構力を入れました。例えば初めての症例を手術させるときには、私の持っている論文や教科書を貸して、術前カンファレンスしてみて、読んでいなかったら、または読んで来ても内容が頭に入っていなかったら、またはポイントを理解していなかったら手術させなかった。手術中に取り上げる事もありました。13年目に大学で美容外科診療を担当した際も、術前カンファレンスでは関連分野があればレジデントに勉強だけさせて、実際には助手に就かせて私が手術してながら、術中に逐一説明する等して教育をしました。それどころか、美容外科治療等は初めて診る若い医師には術中に一から教える事もありました。手と口を同時に動かし両方を頭がコントロールするので、手術時には倍のエネルギーを使いますからくたくたでした。

医学的研究とは臨床に役立つ内容を求められます。他の科学ではすぐに実用でない所謂リベラルアーツ研究が格好いいのですが、医学では臨床適有用性が評価の対象になります。実学なのです。学会活動は研究発表の場ですが、臨床的なエビデンスにしても、基礎科学的な知見にしても患者の治療の為の知識の一つに過ぎません。学会活動は新人の年にも地方会から練習を積んで来ましたが、私は13年次の終わりに助手研究員の職でしたから、医学博士の取得がゴールとなりました。講師以上に任命されて大学に残れば、やはり研究が三つの職責のひとつとなります。では、大学医局を離れて臨床開業医となると研究は出来ないのかと言うと、臨床的研究は出来ます。基礎的研究は一般病院では難しいので、時間を作って大学に行けば出来ますが、その場合稼ぎが減るし、研究費用は負担しなければなりませんから、やはり難しくなります。

銀座美容外科医院では、父は胸部外科出身の美容整形屋上がりですから、美容外科の医学的知識は希薄です。現在でも未だに他科から輩出した非形成外科医が主体のチェーン店系では同様に美容外科的医学的知識は希薄なのと同じです。彼等はビジネスですから、経営的知識はあります。

父、森川昭彦とは私の新人時代からよく議論しました。いや、形成外科専門医になる7年目までくらいは、学生時代も含めて、私が日々得て来る医学的知識を授けるだけでした。私が医師になれたのは父の拠出の御陰ですから頭脳で返済していたのです。でも11年目に銀座美容外科医院に常勤した際に、経済的にも返済を求められました。バブル時の不良資産の返済の為に騙されて保証人にされたのです。話せば長くなります。父には悪い女が着いていたのです。その女はいつか葬ってやるからまたの機会に記すとして、経済的にも返済する保証人になったので、逆に今度は教育者として父を糾弾する立場になりました。非形成外科医の医学知識がいかに不足で危ないかを逐一糾弾する役目です。

例えば、顔面神経を知らずにフェイスリフトをしていた父は麻痺症例を多発していましたから、毎回教えました。重瞼術切開法をする際に眼瞼挙筋腱膜を傷めていたので遅発性医原性眼瞼下垂が徐々に進行していました。機会を見つけて私が治して、術中に父に見せて眼瞼挙筋腱膜の解剖学的構造を教えました。豊胸術時に胸壁の解剖を知らない父はバッグを入れる層がバラバラでしたから、私がまず図示して教えてから手術に臨むとその通りなので、父は驚嘆しながら喜び、「森川一彦教授有り難うございました。」とふざけていました。このようにして10年生頃からは毎回父に対して教育をしてきました。でも、それも先が見えない事で、父は私が16年生次にまた体調不良となり入院しました。

継承をも考えたのですが、悪い女を切らないと難しいので手をこまねいていました。そんな頃、13年生の前の年に、面白い人物が声を掛けて来ました。K氏はコムロの宮崎院の事務長で、私が最も長く多くアルバイトしていた際にも面識がありました。

ある時彼と、街で会食しました。用事は予めバイトの件だと聴かされていましたが詳しい事はこの際にからでした。K氏は「コムロが宮崎を引いて、私が開いたので手伝って下さい。今度大板も買いますから、そちらも。もし良ければ医局の医師にも持ち回りで手伝って貰えたら助かるんです。」といきなり切り出しました。私はいぶかりながらも「悪い話しじゃあないな。」と載ってみせました。まだ13年次の医局員時代ですから、アルバイトならいいかとも考え、将来は銀座美容外科と組んでの運営も有りだろうとも考えたのです。更に医局員としてはバイト口を教授にも報告しなければなりませんし、他に医師を誘うなら先ず教授にも声をかけてもいいかと思いました。

当時教授は焦っていました。大学病院の形成外科医局員は、将来美容外科診療を持ってしての臨床家として生計を立てて行かなければ喰えない。病院では形成外科診療だけでは雇われないし、開業したら美容医療が稼ぎところになるからです。私はそんな事は医者になる前から判っていたのに、新人時代いきなり「美容整形屋の息子だから・・・。」と言われた悔しさは横に於いて、当時のUc教授のことを兄貴の様に慕っていた私は教授の方針そう様に動きました。それに私を馬鹿にしたのは私より上の医師ですから、私より若い医師をこれから美容外科医として育てて将来は一緒にグループ化して診療するのは夢があると考えました。

つまり当時医局員の私は最後の奉公として、バイト口を作るのも、美容外科臨床家の養成のために仕事の一部だと考えました。Uc教授も面白そうだと言って乗って来ました。こうして、次に会合を持つ際には銀座美容外科医院で、父とK氏が話し合い、やってみろという事になり、次にUc教授が銀座に来院して、医局員が美容外科診療をする登竜門になるし、将来は父も含め銀座美容外科とも合併して、多くの形成外科医が美容外科診療に携わるのはいい事だとし、先ずバイトを始める事になりました。

当時大和徳洲会病院形成外科・美容外科部長を医局派遣で奉職していた私は、レギュラーでの札幌出張を強いられる十仁はさすがに無理と考え閉めましたが、同じ遠方でも自分で運営するのでないこのバイトは可能だと考えたのです。だいたい月1〜2回の飛行機での出張となりました。そしてその後、私が院長を受けてからはUc教授や茅ヶ崎時時代の教え子で医学博士の共同研究者であるYm医師にもアルバイトに来てもらいました。

もっとも運営はK氏で彼は医師ではないのですが、コムロで美容外科院の経営に携わっていたので、経営手腕よりも、集客手腕に長けていました。だから一緒にやって巧くいくと考えました。ところがやはり、医療方針に於いてはしっくり来ない面が露呈していきまいした。

さて、こうして地方美容外科院での運営を学ぶ機会を得ました。詳しい事は次回にまた話しを継いで行きます。