2017 . 12 . 28

美容医療の神髄-歴史秘話個人編-美容整形屋と美容形成外科医「番外編:美容外科医の家族は辛いよ!10」

このブログのシリーズの題は、「美容外科医の家族は辛いよ!」ですが、要するに美容外科医である父と母の思い出を綴り、昨年7月に亡くなった母を追悼するためです。または生前の母のやるせない気持ちを私がここで吐き出して上げて、これでなかったことにする為です。いや、私がもう忘れてあげることで、母の家族と父への気持ちだけを遺してあげようという私のおせっかいです。

敢えて言えばここで吐き出したことは個人情報で、明かして欲しくない話しが満載です。ですが、だから、私は今や母の追悼の為にここに書き連ねてきました。最終話は母と父の紹介です。

母は埼玉県川越市出身ですが、産まれは東京都四谷区です。現在の川越市に豪農の関根家という家がありましたが、そこの次男である祖父が東京に出て財を成した際に産まれました。昭和10年12月21日でした。戦中に川越市の実家近くに疎開しました。その後当所の大邸宅に暮らしました。昭和32年頃短大を出てすぐに、父と見合いした様ですが、父は当時川越市唯一の大病院の院長の甥でまだ慶応の医局から北里研究所病院に在籍しながら、川越の病院に住んでいました。つまり二人は金持ちと病院間の政略結婚です。後年母の父は父に融資した様です。

父の叔父が院長をしている赤心堂病院は、当時川越市唯一の救急指定病院でした。高層ビルではないのですが、最上階に居所を借りて住んでいました。時期に私と弟が産まれ、私が幼稚園に入る3歳になるまで住んでいました。そこでは毎日の様に重症救急患者が搬送され、私は子供ながらに見物していたそうです。

3歳までの記憶のこる筈は無いのですが、私の外科医としての原点です。脳の中に刷り込まれているのでしょう。そのシーンを思い浮かべる時があります。多分医師になってからの経験とオーバーラップしているのでしょう。でも、大学医学部で最初に身体に触る機会である解剖学実習をした時に学年でもっとも密に接していたのは私でした。逆に初日に倒れたのは内科医の子でした。幼少時に病院で外科系の記憶を得た私は、自然と外科医を目指す意志が刻まれていったのでしょう。また父母もそう策したのかも知れません。

そんな父母が、赤心堂病院を出ることになるのは、父が医学博士称号を得て開業することになるからですが、赤心堂病院院長である大叔父の長女(男子はいない。)が東大出身の産婦人科医と結婚して、あとを継ぐ話しが上がったからでもありました。父が銀座美容外科医院の前身である銀座東一診療所を開業することになるのも偶然が重なったからですが、北里研修所病院を辞してもいい時期だったのも偶然です。歴史編の最初の始めの部分に詳しく載せています。

父母と私達兄弟は川越市の隣のベッドタウンである上福岡市の団地(当時流行り)に住みました。父はそこから銀座まで通いました。私は川越市の幼稚園に園バスで通いながらも近くに何人も友人が居て、団地から数十分自転車で走ると、田んぼや小川がある田舎で野性的に遊びました。また家族は日曜日には良く出掛けました。当時国産唯一のファミリーカーであるダットサンです。若い夫婦と二子は楽しく一緒に暮らしていた記憶があります。

その後私が東京の小学校に合格したので、引っ越しました。父も職場に近くなります。千駄ヶ谷に住み、父は地下鉄で通いました。開業後軌道に乗り、銀座美容整形と改称して昭和53年に銀座美容外科医院と標榜名を変えました。私の小学生時は、父は毎週日曜には一緒に遊んでくれました。キャッチボールのグローブの感触は今でも熱く忘れていません。だから私は、我が子五人ともそんな触れ合いを求めました。母は女中さん(高度成長期当時は福祉の一貫だった。)を雇いながらも、家族を看て楽しんでいました。毎年夏には家族旅行、冬はスキー旅行も楽しんで、私は学習院初等科を、弟はお茶の水を卒業しました。私はそのまま学習院中等科へ上がり、そこでクラブ活動(何故かラグビー部が面白そうで入った。)に没頭したので、父と遊ぶ機会は無くなりました。

そこで、父はその前から没頭し始めたゴルフに打ち込みました。何しろ当時銀座美容外科医院は都内数十軒しか無い美容整形の走りですから大流行りし始めたのに、週休2日にしていました。ゴルフ場会員権も数カ所求めました。そこでいわくのある女事務主任を同道させ始めたのです。またトンネル会社の事務所として赤坂にマンションを借りていましたが、そこに彼女を住まわせ始めた様です。仕事が遅くなったとの言い分でたまに泊まりました。彼女は北里時代の患者でしたが、くっ付いてきて銀座美容外科医院に就職しました。あとで考えると、彼女との縁の方が母との縁より長いことになります。しかし母は許しませんでした。私が14歳時のある日曜日の朝に、事務主任とゴルフに行くことを阻止しようとした母が怒って、ゴルフクラブを毀損しました。父は流石に怒って、暴力を働いてそのまま出て行きました。

しかし、離婚は避けました。いや母は「絶対別れてやらない!」と言い続けました。その後私はメッセンジャー兼運び屋として父と定期的に会いましたが、父と母が顔を合わせるのは数年に一回、私達兄弟の学業や仕事の節目だけでした。さすがに二子の結婚式には父母として列席しましたが、その場限りでした。

私達家族や、弟家族もたまに銀座を訪問しました。おじいちゃん孝行です。私達の子に取って、私が14歳までの父と同じく優しくて楽しいおじいちゃんだった。それはそれで孫達の心に残りました。でもその際女事務主任が後ろで糸を引いて、私達を懐柔しようとしていました。頭が働かない家族達はほだされていました。でも一番嵌められたのは私で、バブルが弾ける際に借金の保証人にさせられました。

母は私達が所帯を持ってからもどちらかの傍に住み、家族とたまに関わり、たまに孫と遊んでいました。つまり父も母も二人の子を通じて関わり合い。孫と関わり合い、見えない糸で繋がっていました。少なくとも母はそのつもりだったでしょう。

その証拠に、父が亡くなったら喪主は私にさせても、母が手配をして供養を済ませ、その後毎年の節目に墓参りに誘うのは母に決まっていましたし、位牌を立てて毎日線香を欠かさなかった。今から想えば、母は父の生前に合えば良かったとも言えますが、合わずとも、子や孫を通じて母と父は一緒に生きていたのでしょう。そんな生き方もありなのかも知れません。私にしてみれば、母が事務主任に報復に成功しなかったのは残念でなりませんが、その瞬間に恨みを断ち切ったのでしょうか?。その後は口にしませんでしたし、私が話しを蒸し返す様に向けると「もういいはよどうしようもないし。」と言って遮りました。

約10年遅れて、母は父の後を追いました。その言葉を手向けて、「それで終わりにしよう。」と私は家族にも告げました。まだ事務主任は亡くなっていない様ですが、(母と同年代)母には家族が居たのに、彼女は天涯孤独なので、母の勝ちとしましょう。そして、私達兄弟がの家族が父と母の遺志を継いで、家族で生きて行きたいと思います。もちろん父と母の入った仏壇には線香を欠かしません。一応母の亡くなった年の内に供養出来ました。

これで美容外科の家族は辛いよ!は終了にしようと思いましたが、それでは片手落ちです。私の代の美容外科医の家族は辛いよ!を数回に渉って載せようと思います。ただし現生に居る人たちなので一部はイニシャルや偽名での登場にします。