12年次は平成10年、1998年です。突然思いついたのですが、毎回テーマがアッチコッチに飛んで時間軸もずれることがあるので、題名の後ろに何とか編と書き添えることにしました。
銀座美容外科におけるフルタイムの美容整形というか、美容外科的診療経験は私を一団飛躍させました。それまでいくつもの美容外科チェーン店にバイトに行っていたし、銀座でもバイトして美容外科診療に携わっていたのですが、フルタイムだと勉強になりました。患者さんに対する責任を感じながら、経営も考えていかなくてはならない。ところが、銀座美容外科の経営は傾いてきていました。前にも述べたように、銀座美容外科医院は父が常に一人で診療してきました。父が病気となったために私が常勤したのですが、患者さんは結局一人分しか来ません。そして、父の療養費用も含め、固定費が二人分必要になるし、そのため私の給与も足りなくなりました。しかも父は数週間の入院で済み、一緒に診療する機会が取れたのはうれしかったのですが、結局議論してばかりいて収入には繋がりません。
そこに持ち上がったのが特殊なバイトの件でした。ある時、十仁の院長と話していたら、突然札幌院をやらないかと投げかけられました。当時父は、翌年の非形成外科系の日本美容外科学会=JSASの開催を頼まれていて、準備のため事務局である十仁病院の屋上にあるペントハウスみたいな事務室を訪問して打ち合わせを繰り返していました。平成10年にはまだ十仁病院は、都内の人なら知っていると思いますが、電通通りの端の新橋に入ったところあり、首都高の会社線というバイパスの90度カーブの所で新幹線の線路に挟まれていて、その高速から病室が見えるというすごいところにありました。今はドンキになっている所です。
私も父も直ぐに返事をしなかったのですが、数日して事務長が銀座美容外科医院にやってきて、説明を始めました。その何年か前に札幌院を開院したそうです。バブルに乗じたのでしょう。そもそも私より年上の人は知っていると思いますが、十仁病院は電柱広告が売りだったのです。日本中の電柱に十仁病院の広告が付いていましたよね。ところがご存じのとおり北海道は雪国なので、戦後順次電柱を無くし地下化したので、電柱広告ができなかったのです。ですから北海道には十仁の支院は作らなかったそうです。でも、バブルの際に出してみたのです。ちなみに有名な十仁ブティックと十仁美容室はそれまでにも出していたし、(テレビで売れていたので全国展開していた。)高度成長期からバブルまでの札幌が景気いい時の金持ちは、東京の有名な十仁ブランドに高級感を感じていたのです。当初は若い医師を派遣していたのですが、そのうちの一人が結構できる様になったので、新橋の本院の常勤にしたくなったそうで、その後がまを探していたようです。
そこで父がこぼしたらしいのですが、紆余曲折あって私に頼もうと考えたらしいです。隔週で金曜日に入り、午後から手術し、土曜と日曜の午前も手術をして来る。平日にはずっと電話番の受付嬢が居て、術後処置等は看護婦一人がこなすという運営でした。収入から経費を引いて60%を私がもらうという、悪くない条件でした。だいたい月に4例くらいの手術をして、銀座美容外科での給与と同等の額を持ってきました。
この人的体制でそれなりの手術をするのは、大変でしたが面白かったです。まだ私は40代ですから、体力的には問題ありませんが、術後経過を診れないのでリスクを冒せない。たとえば、フェイスリフトをしても、取りすぎない。通常2㎝切り取るところを1,5㎝にとどめたり、下眼瞼のたるみ取りも少なめに切り取り、絶対に外反させないようにしました。その結果臨床的な手術の手触り感じて、手加減を覚えて、勉強になりました。
さらに当時急に注入療法が進歩したので、頻用するようになりました。それまではコラーゲンしか手に入れられなかったのですが、そこではボツリヌストキシンも手に入れられました。臨床的応用は本邦初でした。実は形成外科分野でも、ボツリヌストキシンの有用性は研究されていました。何故かというと、形成外科医は勉強する機会が豊富で、欧米の論文を英語で読めるからです。私も或るとき、ボツリヌストキシンの論文を読み使いたいと思っていました。覚えていると思いますが、ちょうど前年にオウムのサリンのよるテロがありましたよね。あの時彼らはボツリヌスも作ろうとして成功しなかったのは知られていますよね。だからではありませんが、ボツリヌストキシンによる美容外科医療での有用性を本邦で勉強してみる形成外科医は増えたのです。この2年後に、私は学会発表もします。ただ逆に、使い方によっては危険なボツリヌストキシンを本邦に導入するのは難しくなっていました。日本でも研究する機関はあったのですが、製造許可が出ませんでした。ボツリヌストキシンは、形成外科・美容外科分野だけでなく、整形外科・脳神経科・小児科でも有用性が研究されていたのですが、製造が難しかったのです。しかしそこは老舗の十仁病院です。手広くルートを持っていて、英国からダイスポートという製剤を手に入れて、定期的な輸入ルートを構築していまいた。もちろん札幌院でも使用していました。こんなにいいものは無いと思いました。
ボツリヌストキシンについて、折角ですから詳しい説明を致します。実はこの時銀座美容外科にも持参しました。父にも面白がられたので、文献を集め一緒に勉強しました。1998年は今から18年前ですが、この年初めて日本に入って来ました。ボツリヌス菌は大学の細菌学でも習う食中毒の菌種で、今でも年に数例発生しています。土中に常在する菌ですが、空気に触れると死ぬので通常は食べられません。ところが密閉する食物に入っているとそのまま口に入ることがあります。私が熊本の病院に出向していた年に、密閉した辛しレンコンに混入して発生したのは有名です。他に飯鮓等でも有名です。実は菌そのものには毒性は無く、産生する毒素が神経金接合部を遮断するという作用があります。全身のどこの筋にも作用し得て、筋が動かなくなります。筋に着くとそこに留まるので、他の筋には流れません。毒素をボツリヌストキシン(毒);略してBTXといいます。
ボツリヌストキシンの必要量を筋肉に注射すると、その筋の運動が出来なくなります。動かして欲しくない筋とは何か?というと、表情筋のうち表情皺が目立つ様になって来た所です。眉間の縦じわは表情としても`いやな感じ`なので、止めたいものです。瞼が被って来た為に前頭筋で眉を挙げていると横じわが刻まれて来ます。BTX単独では瞼が重くなる場合には、瞼の治療と併施しなくてはなりません。他にも口角を下げる口角下制筋や、頤に梅干しの種を作るおとがい筋。目尻にからすの足跡を作る眼輪筋等の表情筋に有用性があります。咬筋が強くて厚くなりエラが張っている人にも使えます。
顔面の表情筋に使うのはあくまでも美容目的ですが、いやな表情を止めるのは、人格も優良に見せられるため、内面的治療にも寄与します。父はいつも「美容整形は外面的形態を良好化することによって、内面的人格を豊かにする為にある!」と宣わっていましたから、BTXにはオオノリでした。「眉間の縦じわは嚬みに習うといってしてはいけない顔だ。そんな奴はいなくなればいい!」とか言って、眉間のBTXを来る人みんなに奨めました。私も「顰蹙を買うのひんは眉を顰めるという字です。眉間に縦じわを寄せると顰蹙を買いますよ。」と一緒に悪のりして眉間にBTXを打ちまくりました。こうして父子で楽しく診療を出来たのはBTXのおかげでした。
ボツリヌストキシンは19世紀末には発見されていましたが抽出は難しく、第二次大戦時にBC兵器の一つとして開発しようとしても実用化は成功しませんでした。日本では1988年に予防衛生研究所の坂口先生が抽出に成功しましたが、実用化は出来ずお蔵入りしました。1991年の湾岸戦争時にイラクで見つかったのですが、生物兵器としては実用性が無かったそうです。空気中ではトキシンもすぐ失活する為です。その後USAでBotoxがUKでDysportが製品化されたのは1998年以降です。そして当初は顔面美容領域以外が対象でした。病的な骨格筋収縮は身体あらゆる部位で起こりえます。眼瞼痙攣は軽微なものなら誰でも経験があると思いますが、重症化して止まらない患者さんにはBTXは福音でした。日本でも1998年にまず最初に認可されました。その後、顔面痙攣、筋性斜頸、尖足、脳卒中に伴う四肢攣縮などに次々適応拡大しました。
さて顔面の美容目的では当然USAが先行しますが、UKで製造されたので欧州でも使われました。ご存知の通り、USAでは医療費は自費ですから、FDAで認可されれば何でもどこにでも使えるのです。美容医療でも20世紀末から使われました。歌手のマドンナが使い続けたのは有名です。日本では、自費の美容医療を美容整形の時代から、まがい物扱いする風潮があるので、厚生省は認可せず、BTXの美容医療での使用は医師の責任の下での並行輸入に頼っていました。1998年に私が使用出来たのは、十仁病院のおかげです。一昨年やっとUSAの会社の日本支社が、美容領域でのBTXの認可を厚労省かから出されました。本邦では数少ない、自費医療の為の厚労省からの薬事法状の認可です。これまでとの違いとして、有害事象に対する補償がされることになったのですが、実はBTXでの有害事象は経験上も、報告された文献上もありません。博付けに過ぎないと言うことです。でも、一歩前進ではありました。
上記にボツリヌストキシンBTXの話しを書き連ねましたが、1998年に初めてしよう出来た際の感動を思い出しました。だから書いたのですが、今やへたくそ美容外科医も使います。手術が下手な医師は解剖を熟知していないからで、筋の走行も知りません。だから結構、下手な利用法で格好悪くなった患者さんも来院します。有害事象ではないので国からの補償はされませんが、私達は正直にへたくそと言ってあげます。むしろ私達は経験からして安全な使用法を広めたいと思います。
ところで十仁札幌院での週末診療はその後合わせて2年間で辞めました。面白かったのですが、意外と稼げなかったのと、やはり遠方ではまずくなったからです。その頃別のいい仕事が舞い込んで来たからでもあります。そこには再びコムロ関係が関与します。といってもコムロは平成8年まででした。その時の人脈から新しい仕事が依頼されたのです。その件は2000年以降の話しです。同時にグループでの本の出版もしました。父は出版マニアでしたから、私も肩を並べたのが嬉しかったのを思い出します。
そんな説明をしていたら長くなりました。この年の父と私の記憶が蘇りました。よく言い争いました。でも学会系の件では、協力もしました。パネルを作って患者さんにも説明しました。要するに父はJSAS系(非形成外科)とJSAPS系(形成外科系)の両翼に足場を築き、顔を突っ込み、重鎮化していき、所謂コウモリ(二股)の本領を発揮していきます。次回その件の後、翌年1999年、平成11年は、私が医師13年目にして久し振りに北里大学病院形成外科で診療、研究、教育の三職を受ける年です。話はそこへいつ繫がるやら?・・。