いよいよ平成11年、1999年、年齢は40歳となります。北里大学形成外科に入局して13年次です。入局以来多くの年月を出向して過ごしました。さすがに1年次は大学で研修医(形成外科9ヶ月と麻酔科3ヶ月)でしたが、そもそも、他科研修は出向が多く、2年次に一般外科、3年次は結婚してすぐ北九州を希望して整形外科研修。その後も4年次に熊本で形成外科レジデントでした。5年次に大学に戻り形成外科研修5ヶ月と救命救急センター5ヶ月をした後、6年次のチーフレジデントを外部で修め、日本形成外科学会認定医を取得した後は、茅ヶ崎徳洲会病院で2年。白金の北里研究所病院(当時はまだ別法人)で2年。茅ヶ崎でもう1年。特例で銀座美容外科医院にも出向扱いで1年出ました。数えてみると、それまでの12年間で大学病院で研修や診療したのは、たったの1年10ヶ月間でした。
私の12年次に父が入院する事になり、肝癌でしたが手術なしで塞栓術で治す事になりました。北里大学形成外科・美容外科のUc教授の温情により銀座美容外科医院に出向しました。その際教授から一言添えられました。「お父さんが病気なら助けてあげなさい。美容外科診療もフルタイムで学びなさい。でもその後、培った美容外科の診療能力を大学で授けてもらう事になるかもしれない。」年初に云われても、出向中は気に留めていませんでした。実は私を腹心の一人として利用しようとしていたのかも知れません。だとすればそれは光栄でもあります。
そもそもUc教授は北里大学2期卒業生で平成9年に教授になりました。当時医局に在籍する卒業生の最上級ですから慕われていました。教授選考には論文数と指導歴がものをいいますから、我々下級生も論文を書く際や学会発表の際の指導者として記名して応援しました。そもそも私達が入局した際に10年生で青年将校みたいな人でした。ペーペーの私達を兄貴分として手を取り足を取り教えてもらった恩があります。当時からみんなで頼りにしていました。医局長も担っていましたから人事希望を汲んで、実質的に決める役目でした。逆に教授になってからも、何かと人事を左右していただけました。そういえばその後、大学に残るかどうかの議論をしていたら教授は一言、「お前は臨床家が合っている。開業するなりお父さんとするなりがいいと思うな。」と言い含められたのを覚えています。いい意味でも厳しい意味でも、私の医師としての人生を左右した先生です。
翌年の人事異動を決めるのは12月です。その前に突然、銀座美容外科医院に教授が訪問して来ました。お見舞いを名目としていましたが、父が快気であるのは伝えてありましたから、人事異動の打診であるのが見え見えでした。Uc教授は、いきなり冷たく言いました。「お父さんが元気なら、医局人事に戻って来ますか?、それとも辞めますか?。」「実は北里大学の定年があります。教授は65歳、助教授は・・、講師は・・。助手研究員は13年次で定年です。医局と言うのはピラミッド的集まりで公的組織では無く、大学病院と大学医学部に雇用を依頼したり、出向先に就職を依頼するだけです。お父さんも知っていますよね。」「だから森川先生は来年に戻らないと、二度と大学では仕事(博士取得の為の研究)ができません。」Uc教授はさらに続けて父に言い含めます。「お父さんは医学博士ですよね。もちろん私は教授ですから医学博士です。他の大病院でも未だに博士でないと部長になれない所が多いですよね。」「彼(私の事)にティーテル;title=学位を取らせる最後のチャンスです。お父さんも持っていらっしゃるのだから、彼にも取らせてあげましょう。私に任せて下さい。しっかり教育して授与しますから。」と、そんなこと約束してはいけない筈なのに、言ってしまいました。私は話しの筋をある程度予想していました。大学に研究の勉強に週一回行ってましたし、教授は訪問の前に「来年の人事の話しに行くから・・。」と私に連絡をしていましたから。
父は大喜びでした。「いいなあ!、お前はなんていい教授の下に勤めているんだ。」「もちろんそうして欲しい。」「内沼先生がそういうのだから甘えなさい。」と、一年前私を連れ帰ったことなど横に置いて、私に勧めます。話しは戻りますが、日本美容医療協会に於いて教授も理事にとなり、父と懇意になり始めた頃でした。もしかしてそこで話しが付いていたのかも知れません。
さらにもう一つ教授は付け加えました「森川君は、これまで美容外科診療に積極的に携わり、この一年はお父さんの下でみっちり勉強しましたね。大学で美容外科の経験が深い者がいなくなったので、彼が中心になって大学での美容外科診療を盛り上げて欲しい。」「お父さんもそれで本望でしょう?。本当はお父さんにも助けてもらいたいところですが、大学という所は面倒な所なので、そうは行かないのが残念です。」
実はその前に、父は言っていた事があります。「これからは、形成外科医がその医学的素養を活かして美容外科診療をやるべきだが、いかんせん教育者がいない。症例がない。だから僕がいつかは院外教授みたいな立場で美容外科教育に携われればいいな。」前回記したように、形成外科を下に見ていたからこその言でしょう。でも父は37年間臨床医で、子分を持った事が無いのは前に記しました。私は子分でなく子です。その子を使って夢を追ってみたいと思っていたのでしょうか?。若しかしてこの件も、協会で父と教授が話題にしていたのかも知れません。
私は僅かに逡巡しました。最後のチャンスだと言ってもじゃあ本当に貰えるのか?、実際成就しないで辞めていった医局員も居たし、そうかと思えば若くして簡単な研究で取った人も居た。13年目で研究に半専従といっても、何事もはじめてに等しいからついていけるのかな?、とも思いました。その頃、教授が解剖学教室に話しを通して共同研究の道が芽生えていて、その第一号と二号だったのですが、橋頭堡みたいなものかとの疑いも無くは無かった。そもそも13年目で半専従的に研究をして結果が出せるかも判らない。出来上がらなければ、その後も出向しながら論文を成立させればいいと言われてやっと、決断しました。そもそも、教授が「博士を取らせます!。」というのはまずいんじゃあないかと、父とも顔を見合わせたものです。
それでは北里大学に戻って何をしたのでしょうか?。実は、それまでとは違う環境と仕事の質が目新しくて、楽しみだったのです。大学と大学病院での仕事には三つの柱があります。臨床、教育、研究です。三職は一部で連携しますが、別個の部隊です。それを主宰して管理するのが教授ですから、教授とは大変な職種ですよね。ちなみに教授から給与明細をチラ見させてもらった事があります。この重職にしては少ない、大企業の同年輩のサラリーマンの2/3くらいの額でビックリしたのを覚えています。もっとも教授の行くバイトの相場はビックリする程の額ですからおあいこです。それは後年。
こうして私の13年次は、北里大学病院形成外科・美容外科で、美容外科担当の教授の下で実行部隊として実質的に美容外科診療をする事になりました。研究員という肩書きですが、それは医局内の順位の肩書きで、診療上も大学の助手です。給与は大学から出るのです。ですから、卒前教育もするのかと思えば、太鼓持ちだけでした(学生講義のスライドセッティング)。大学での肩書きは助手ですからね。そして研究に於いては、施設と器材と技術者を使用する権利が大学から与えられるというだけです。では、卒後教育とは?、美容外科分野だけに限らず常に若い医者にアドバイスを求められ、毎週の術前カンファレンスでは週に数例ある美容外科の患者さんの診療方針に責任を持ち、若い医師、主に美容外科を一緒に診療するのはチーフレジデントクラスですが、あれこれ教えてあげなければなりません。これが臨床教育です。まずそこからお話しします。
厳しい先輩が優しく教育してくれた若い頃を思い出しました。ある意味で臨床教育の場面は御返し(仕返し?)の論理です。昔うるさい上司に、「このままじゃ死んじゃうぜ!。ちゃんと一時も目を離さないで把握しろ!」と怒られて、徹夜で患者を診て救った時は、指導医にありがたみを覚えたものでした。手術に臨んで術前のカンファレンスで、「そんな事ではこの手術はさせられない。」と言われる事もありました。でも三日後の手術の為に猛勉強して、そらで手術法を説明出来たら「よしその通りすれば出来る。前立ちするから安心しろ。」と許可されて見事に手術結果を出せたら、嬉しかったし、感謝に堪えなかった。そうだ、その頃の恩返しかお返しか、言って見れば先輩後輩の関係は仕返しの論理です。いわゆる徒弟制度はこうして成り立っている訳です
そして教育者の立場になったもう13年目の私は、持てる知識と経験を後輩に与えようと思いました。しかも、美容外科診療に於いては実質的トップでした。当時6年目のチーフレジデントは二人いて、美容外科分野の担当はそのうちの一人のIk先生でした。初診で教授が診た患者は、私に任されるというか丸投げして来ます。それはそれで嬉しかった。結局術前からチーフと二人で差配していきます。術前カンファレンスはあくまでもチーフの勉強発表会みたいなものですから、私が事前に論文資料を渡しておきます。例えば年に数例のフェイスリフトのカンファレンスなら、歴史から術式の変遷を勉強して知識を披露してから、「ではこの症例はこれこれこういう理由でこの術式にします。」と論理的に説明しないと教育にならない訳です。チーフがちゃんとプレゼン出来て、私より先輩の講師陣は感嘆し、教授が「よしよく勉強した。では森川先生に教えてもらいながら手術しなさい。」とゴーサインが出ると、私が誉められた様な気がして嬉しかったのを思い出します。
美容外科診療以外でも、私は外部出向してのヘッドが長かったので、独自の知識を持っていました。今や多くの形成外科がする穿通枝皮弁を、大学では誰もした事が無かった。私は11年目に臀部の褥瘡に対しての手術経験がありました。ある日穿通枝皮弁を初めて大学でする事になった時、私はこの時とばかりに術前カンファレンスで持てる知識をすべて披露して鼻高々になったのでした。でもそこはさすが教授、既にみっちり勉強していて、こちらもビックリしました。教授という人種は、論文を読みまくっているんだなと感嘆したものでした。
またある時、耳下腺腫瘍の浅葉切除術の症例がありました。チーフレジデントが手術して認定医試験の症例に必須なのです。私もその6年前の試験の際に使いました。しかも茅ヶ崎での3年間では症例が多く(外科が贈ってくれて共同で手術する。)、年に5例程度つまり大学以上に経験していました。ところがUc教授は若い時耳鼻科での研修もしましたから、超ベテランです。チーフレジデントのF先生が手術する予定で術前カンファレンスに臨みましたが、プレゼンが出来なくて火ダルマになりました。例えば、耳下腺管はメルクマールは有りますが、外側から触れるにはコツがいります。咬んでもらって咬筋の上に指を当てて上から下にずらしていくと判るのですが、彼はいくらやっても出来ませんでした。厳しい先輩(私もやられたがその時はもう私を美容外科の先輩として立てていた。)が「ハイ駄目!、もう一度勉強して来ましょう。」と術者却下ましたが、後で私が教えてあげましたら、許されて手術は出来たそうです。でも彼はその一年後に医局を辞しました。
話しが飛んで今、小顔(咬筋)ボトックスの際に、やや上に打ちたいなら耳下腺管を確認すべきです。だから今でも、若い形成外科医がアルバイトに来たらまず聴いてみます。ほとんどの医師が勉強不足で知らないので教えてあげます。今でもそういう役をこなしていますのですが、13年前から変わらないという事ですね。結構教育分野が好きなのかも知れません。そうです医師はその名の通り師ですから、教育者であるべきです。患者さんにも指導教育するべき立場です。私は今でも、術前に診断を得るまでじっくり診察します。それは患者さんに美容医学の知識を授けていることになります。美を指導しているともいえます。美容医療でも知識無くしては診断できない。診断無くして治療方針は決まらない。これをモットーとしています。あとは頭の中で描いた絵の通りに手を動かして治療(手術)するだけです。
卒後教育の仕事はデュティーの1/4にも満たなかったのですが、臨床の仕事は週一回の手術にチーフを伴い教授と臨みました。結構大きな手術も有るので、こちらも勉強になりました。研究の話しはその先として次回に。