気が付いたら、14〜15年次の大和徳洲会病院への出向時の様々な経験談を思い出していました。今から15年前のことですがそれだけ印象に残っているのでしょう。対して病院以外の話題は時系列がはっきりしない事もありますから、思い出し中です。折角ですから続けます。でもこれではなかなか進まないので、医療経験談は一部短縮して記載していきます。
d;胸部外科の尻拭いのため手術を手伝いました。何の手術だかはよく覚えていませんが、胸骨正中切開法での手術はもっともオーソドックスな心臓外科手術のアプローチ法です。どちらにしても心臓はちゃんと動かしていないと生きられない臓器ですから、危急の手術だったのでしょう。心臓手術の経過は良好でも、アプローチ部が治らないと帰れません。つまり社会復帰できないのです。稀に、医師になってから30年間で3例の胸骨正中切開の創閉鎖不全を診ました。どれも胸骨を縦割りしたのをワイアーで縫合して付けたのが外れた症例です。一度はガーゼが挟まっていた為につかなかった症例も診ました。皮膚軟部組織の修復も同時に必要な為に、私ども形成外科が手伝うことがあります。胸部外科の部長は私より5年次下ですが、国立大学出身の秀才でした。骨がずれて創が開いてから数日経ていたと思います。(他科ですから躊躇したのでしょう。または秀才のプライドもあったのでしょう。)時間が経つと創縁が開いて来ます。約2㎝幅の皮膚、筋の欠損が診られました。骨はグラグラです。たぶん筋の移行を要し、皮膚も皮弁を要するかもしれないと思いました。筋皮弁になります。全麻で二人で臨みました。まず胸骨を再縫合します。ドリルで孔をあけてワイアーを通して縛って寄せます。胸骨の後ろには内胸動脈という太い動脈が走っています。医学生だって知っています。心臓血管外科医はバイパス手術に使う事もあるので知らない筈はありません。いや、形成外科医も乳房再建の際に使うので走行を知っています。ドリリングの際には裏側に指を入れて動脈を守るのが定式です。ところが何故かこの時動脈を損傷しました。指が滑ったのでしょう。内胸動脈は血流量が豊富です。いきな血の海になりました。指で押さえれば止まりますが、それでは糸結びが出来ません。手が足りないのです。一人が押さえながらもう一人が糸を掛ける。何しろ骨の後ろですから手探りです。掛かったと感じたら結んでみる。いや掛かっていない掛け直してみて結んでみる。4回トライしてやっと止まりましたが生きる心地がしませんでした。出血量は覚えていませんが輸血がいるギリギリでした。(用意していなかったのでどうせすぐには使えない。)ちょっとした手技上の問題が大きなトラブルに成り兼ねない医療の怖さを認識しました。内胸動脈は心臓のバイパス術に使う事もある程血流量が豊富ですから、もしそこからの出血が止まらなかったら死にます。恐い思いをしました。実はその内胸動脈の血行を遮断したので筋皮弁は使えませんでした。無理矢理縫合してみましたがやはり開きました。骨は付いたので、約2週間かけて肉目形成して植皮しました。もう一度私の出番でした。心臓外科医の彼とはその後も仲良くしました。しかも、上司を招聘し、彼等が病院の運営に関わる様になり、私も巻き込まれたので後段で詳述します。
このところ何回にも渉って医療的な経験談を書いています。形成外科・美容外科医は、生命に関わらない簡単な事しかしないし、所詮ビジネスだと感じている市民が多くいらっしゃると思います。それにだから事故が起きるのだと思っている方が多くいらっしゃるでしょう。違うんです。私ども形成外科医は一般病院での一般医療に携わり医療技術と知識を培って来ました。そんじょそこらの美容外科クリニックに就職した新人医師や、他科から転科した医師とは違います。チェーン店の医師とは違うんです。その違う内容を披露しているつもりです。踏んで来た修羅場談を続けます。
e;心臓外科医は胸部外科医でしたが、手掌多汗症の手術を見学させてもらいました。これはためになりました。
私はいつも言っていますが、腋臭症と多汗症は違います。腋臭はアポクリン汗腺が標準より多い人に起きます。アジア人では寒冷適応としてアポクリン汗腺が減少するように発言する遺伝子が蔓延しているために人口の約80%は腋臭症を呈しませんが、約20%に腋臭症の遺伝子を継いでいる人が居ます。これが腋臭の本態で、遺伝性です。アポクリン汗腺の数が多いために汗の量も多いのですが、においが特別(アジアではマイノリティー)なので、約10倍存在するアポクリン汗腺を減少させなければ治せません。また必ず耳の中のアポクリン汗腺も多い為、耳の中が湿っています。これが診断基準です。したがって腋臭症は剪除法手術で90%以上のアポクリン汗腺を除去しないと意味がありません。ただし逆にアポクリン汗腺は皮膚の裏側にぶら下がっているので、反転剪除法で手術すれば取れます。対して、多汗症とは汗腺の量が関与するのではありません。汗は汗腺が分泌しますが、エックリン汗腺はフィルターの様に、血液中の水分と塩分を絞り出すのです。神経からの信号が来ると(通常は温熱に対する反応)、シャッターの様に汗腺が開いてしょっぱい汗を出すのです。ちなみにエックリン汗は原則的ににおいはしません。ところがエックリン汗腺は皮膚の厚みの中に潜り込んでいるために、表からも裏からも除去できません。つまり手術の適応はないと思います。もちろんアポクリン汗腺が多いために汗が多い人は、腋臭症手術で除去できますが、エックリン汗腺からの汗は手術では減らせません。神経性ですから。私はこの頃、2000年に学会発表しました。その学会発表は本邦初の多汗症に対するボツリヌス菌毒に依る治療でしたが、準備として外国文献を調べたところ、腋臭症の論文はほとんどなかったですが、多汗症の治療法は体系的に記載されていました。多汗症は要するに神経性ですから、どっかで信号を絶つしかないのです。中枢から順に述べると、第一には脳の反応を落とす所謂安定剤がありますが、眠くなるのでよっぽどの自律神経失調がベースにある患者にしか適応しません。次に止められるのが胸部脊椎の傍にある交感神経節を通らなくする治療です。そして末梢では腋窩に対してボツリヌス菌毒(BTX)の注射法があり、1996年にドイツで発表されたのが嚆矢です。今や多汗症には定番です。
しかしBTX治療は確実に半年で切れます。多汗症は熱い時だけの症状発現の人がほとんどですから、毎年夏前になると沢山の患者さんが来院します。でも、永久的効果を求められると困ります。また極一部にですが、脇だけでなく全身的な多汗症の患者さんが居ます。その中で手から腕や脇までの症例で、BTXを3カ所を必要とするとなると、毎年の費用負担が可哀想になります。
そこでその様な重症の患者さんには、上肢全体に対して汗を出す信号を遮断する手術が適応になるのです。胸腔鏡下胸部交感神経節遮断術と言って、この頃から行なわれる様になりました。胸脇から内視鏡を挿入して肺の後ろから胸椎の横にある神経節(神経の分岐点)を焼くのです。脇から腕から手に分布する汗を出す神経に信号が行かない様に出来ます。ただし、両上肢全体が汗がでなくなるとその分の汗が他からでます。代償性発汗です。計算上両上肢の面積は全体表面積の約20%なので、その分他の体表に約125%増えます。ですから、この副作用を容認出来る程重症な上肢多汗症の患者さんにだけ適応するといえます。そこは患者さんの選択に委ねられます。
14年目に仲の良い心臓外科医に聴かれました。心臓外科医は胸部外科医の端くれですから、胸腔鏡下胸部交感神経説遮断術を出来るそうですが、その前にボトックスの適応ではないかを聴かれたのです。手掌と脇の二カ所に毎年BTX注射していく費用と内視鏡手術を天秤に掛けるとやはりこの場合は内視鏡手術が選択されました。ではではという事で、丁度いいので手術に立ち会わせてもらう事を申し出ました。勿論許可されましたが、術野が狭いので残念ながら手を出すことは不可で、見学だけとなりました。交感神経節は脊椎の両側に並んでいますが、片側ずつの手術となります。ます麻酔ですが勿論全身麻酔で、片肺換気となります。二股の挿管チューブを気管支分岐まで入れて、非術側だけに人工呼吸して術側は呼吸しない様にするのです。そういえば、昔(昭和20年代)父は胸部外科でしたが、呼吸管理を要するので麻酔科というものが日本にはまだ存在していなかった時代ですから、父は全身麻酔を研究したそうです。「カーレンスの二股チューブを使って片肺麻酔が出来る外科医は少ないんだぜ!」といつも自慢していました。それが証拠に、私は全身麻酔下でのフェイスリフト手術時には父に全身麻酔を管理してもらうとそれは上手でした。(老齢なのでたまに寝ていましたが、それでも患者さんは呼吸していました。)話しを戻して、当時の外科部長は片肺の全身麻酔が出来るので依頼してありました。手術は約1㎝の孔を脇胸に壁側胸膜をまで開けて肺と膜の間に内視鏡を挿入して脊椎の横に達します。傍で診ていたら見事に胸部交感神経節が見られました。上から数えて二番目から四番目を見つけて電気メスでジージー焼くだけです。(内視鏡にはマイクは付いていないので音は聴こえないのですが、いつもの手術のイメージで音が見えるのです。)これでいいのかという程手技的には簡単です。後は縫合するだけでした。片側30分で終わります。ですから、全身麻酔もすぐ覚醒します。片肺で麻酔していたのを両肺に酸素を送れば直ぐに覚める訳です。ですから入院は不要です。そもそも創は小さいし、手術時間も短いし、全身麻酔も短時間で直ぐ覚醒しますから日帰り手術でした。
胸腔鏡下胸部交感神経節遮断術は簡単な手術の部類ですが、解剖学的知見が深くないと出来ません。一度見たらやりたくなりましたが、胸部外科医に拒否されました。テリトリーというものです。それにこれが出来てもボトックスのニーズを侵しません。ですが、見た事があるので説明は出来ます。その後比較の為の知識としてとても有用な経験となりました。感謝しています。
番外編;長男の手術も恐い思いをしました。そして思い出した11年次の症例も説明します。続けて研修制度の説明もしていきます。その経緯から、病院そのものの運営にも関わっていきますが、長くなったので一度筆を止めます。
更に当時は北里大学形成外科美容外科医局からの出向の状況でした。だから、権威的にに大学でなければできない様なレベルアップの仕上げを要請されました。医学博士の審査を受けて合格し、美容外科学会専門医の取得に取り組みます。
ところで眼瞼形成術の臨床経験は学会活動にも役立ちました。父との交流にもです。JSASでの活動はこの年が最高潮でした。預かっていたを十仁札幌院を辞めても、JSASへのスタンス移動は継続していました。日本美容外科医師会でのクーデターはその翌年のことでした。その辺りから再開します。さらにアルバイト人生は、教授も巻き込み進行します。銀座美容外科で非常勤での診療も継続していましたが、父も体力が落ちて来たので、継承について検討し始めましたが、障害がありました。この辺りの話しも次回以降にします。
この頃はもう15年以上前ですが、医師としての経験を深める年代でした。いくつものあまり専門的領域に関係ないエピソードを書いて来ましたが、こんなに幅広い経験をして来て医師としての矜持を強めて来たのです。そもそも、恐い思いは長く記憶に留まるものです。それが胸の奥にあるから慎重で、且つ頭脳に貯めた知識に基づく大胆な手術ができるのです。ですからこれらのエピソードは大きな財産です。もう少し次回に続けます。