母と父の関係を美容整形屋と照らし合わせれば、何と言ってもキーワードは「美容整形屋に女は憑き物!」です。
父は昭和2年産まれで、昭和28年に慶応大学医学部を卒業し、医局は同大学第二外科でした。そこは当時先端領域である胸部外科でした。直ちに北里研究所病院に出向しました。皆さん知っての通り北里柴三郎は、感染症医療に於ける本邦での最高権威者で、病院は研究所に付属し、最新の医療を推進していました。当時もっとも罹患者が多く、しかも慢性疾患のため戦後の国民国家の再興を妨げていたのは結核で、北里研究所病院も結核サナトリウムの様相を呈していました。
父は福島県猪苗代町の産まれで、祖父は医師でしたが、祖母は未婚のまま父を連れて東京に出て来てしまいました。祖母は教師でしたが、音楽教師を目指して芸大の前身校に移ったのです。祖母はその後教師をしながら父を育てました。父が中学を出る頃、祖母は弟の病院に潜り込みました。大叔父は医師になった後に、川越市で最大の赤心堂病院の院長の家に逆玉して、院長となっていたのです。父に対しては継承も念頭に入れて、医学部に行かせました。慶応を卒業してからは赤心堂病院の副院長で外科医と大学の第二外科医局員の二足の草鞋だったようです。
胸部外科とはいっても当時は呼吸器外科が主でした。心臓外科は心肺管理が進歩していなかったから不可能とされていた時代ですが、父は麻酔と呼吸管理の研究で医学博士を取得していました。後年私の医学博士取得時に原稿を見せてくれたのは励みになりました。北里研究所病院胸部外科では結核に対する手術に明け暮れていた様です。胸郭形成術と言って結核に罹患した片肺を肋骨ごと潰して菌をやっつけるという野蛮な手術でした。当然片側の胸はペシャンコになりました。ある時勉強していていい手を見つけました。シリコン注入で再建するのです。多くの結核患者に胸郭形成術をした後にシリコン注入をした様です。経年変化でゴツゴツになるので後年美容外科学会に殴り込んで来た年配の女性患者がいました。若年の女性の罹患率は高かったので、どうも近い関係になる事もあったらしいです。その点は後年問題となります。その後銀座第一診療所を改称して銀座整形、昭和53年から銀座美容外科を開業していました。
母は昭和10年の埼玉県川越市産まれでした。祖父は庄屋の家の次男で家を出て戦前から事業をして金貸しまで成り上がりました。一時は東京に移住したのですが、戦中は川越に疎開というか戻りました。戦後は高度成長期に向けて、市中金融会社としてかなり稼いでいました。母は短大を出て数年後父と見合いをしました。川越市の最大の病院の後継者と凝らせられる父は、川越市で最大の経済力を誇る母の家と政略的に結婚しました。その後、私は川越市で生を得ました(もっとも当時赤心堂病院には産婦人科は無かったので市中の産院です)。でも住居は病院の上でした。今は亡き母はよく言いました「一彦は病院に6歳まで住んでいたのよ。当時赤心堂病院はしない唯一の救急病院だから、毎日の様に外傷患者が担ぎ込まれて、一彦はまじまじと見ていたのよ!。だから血に馴れているの、だから外科医に向いているに決まっているわ!」すごい話しでしょ?。母が死んで一番先に思い出したのはこの言葉でした。確かに学生時代から私が一番怖がらなかった。内科医の子は解剖実習後倒れたり、吐いていたものな。母は私に吹き込んで医師への路線を引いたのです。
ところが、赤心堂病院院長である父の叔父の娘に東大産婦人科から逆玉医師が来ました。丁度いいので父は赤心堂病院を辞して、母の家からの金銭的援助もあり、銀座で美容整形を開業する事にしました。北里研究所病院の皮膚科部長がサテライトで作っていた施設を買い取りました。私は6歳ですから、家族で東京に移って学習院に入りました。それは母の夢だったのです。
銀座で上に述べた北里研究所病院時代の患者を雇いました。結核患者で胸郭形成術を受けた後に、シリコン注入で再建した若年女性の一人を、事務受付者としてです。母は知っていたのか知らなかったのか?、まあ仕事と思っていた様です。今となっては死人に口無しです。
私は中等科まで学習院に行きました。高校は慶応を目指しました。母も大賛成しました。もちろん私はそれだけの成績を得ていました。今考えるとその前から父母の関係にすきま風が吹いていました。私が初等科に行っている頃は、父は日曜日にはいつも遊んでくれました。家の前で真剣にキャッチボールをしました。父は学生時代野球部だったので、私を鍛えました。でも中等科に入って私は、野球には興味を示さなくなりました。今思えば日曜日の夜に限らず、父は家にいれば一緒テレビで野球観戦したものです。ところが中等科に入る前頃からその機会が減りました。時は高度成長期の真っ最中で銀座整形は軌道に乗り、大忙しになってきたのです。父との交流が減り、中学生になると私も忙しくなり、クラブは縁のないラグビー部に入りました。敏捷だった私は二年生時にはウイングという花形ポジションのレギュラーになり、毎週の様に試合で駆けずり回っていました。父との交流は減り、母は勉強も叱咤する。父はラグビーには興味が無いのか、一度も試合を見に来ませんでした。
3年生になって慶応高校を目指す気持ちが強くなりました。父の大学は慶応ですから、高校から目指そうという事は成績からして自然でした。母の弟も卒業生です。そこでクラブは辞めて受験に専念しました。その前に事件が有ったのですが、鶏と卵の関係で事由と結果の前後関係は、私の心の中でも混乱していますし、今となっては母から聞き出す事の叶いません。訊いとけば良かったと後悔しています。
事件は私が中等科2年生の秋でした。上に述べた銀座整形の事務受付の女とゴルフに出掛けた事が母に発覚したのです。家族で病院旅行に行った事も有りましたから、母はその存在は知っていました。そう言えば中学に入った頃から私はラグビーに入れ込み、父は日曜日にも出掛け、家には居ませんでした。私の小学生の頃も、父は月に数回はゴルフに行っていました。日曜日の他に水曜日も休業していたからです。私が中学生になると、日曜日も毎週ゴルフ三昧でした。でも、その同行者に問題の女性も含まれているかは、不明です。ある時バレた様です。その前には医院の近くの赤坂に税金対策の兼ねて、事務所としてマンションを借りていました。私の小学生の頃は、母も事務を手伝う事も有って、マンションに出入りしていましたから火種は無かった様です。何故問題が発覚したかは判りませんが、その時から父はマンションに住み着きました。
ここまでが母と父の関係の前半生です。後半は私が主体になりますが、父と母の間に立って生きます。こんな人間関係で私が医師に、更に美容外科医になれたのは、ひとえに父と母の御陰です。母が亡くなって身に滲みました。次回もう少し「美容外科医の家族も辛いよ!」を続けます。