父が家に寄り付かなくなったのは私が中学生の頃。私はその後慶応高校に合格し、遊び呆けます。父が居なくなってタガが外れたのです。でもそうはいっても交流は続きます。母は私を頼りました。だから、今回亡き母の生き様を書き添えたいのです。
では、父と母の婚姻状態や、家族の生活はどうしていたのか?。まず母は私と弟に絶対に意地でも婚姻関係を絶たないと宣言しました。そうなれば、経済面ではどうするか?。法律的に婚姻関係を継続するなら、経済的には同一会計でなければなりません。ただし、口座で動かすのは面倒というかまずいので、私達が取りに行く事になりました。毎月誰かが運び屋となるのです。
父が帰らなくなったのは昭和47年かと思います。当初から、私は父に会いに医院を訪れていました。もちろん子供としての気持ちで帰る様にも頼みました。残念ながら翻意出来ませんでしたが、その度に必ず私に持たせました。当時銀座整形医院はかなり流行っていました。事務室で会うのですが、隣の待合室には術前術後の患者さんが必ず何人か居ました。そういえば私は幼少時には病院に住んでいたのだという記憶が沸き上がって来ました。これも父の作戦の一つだったのでしょう。
大体1〜2ヶ月毎に訪れました。まだ中学生程度ですが、医院に行くと面白かった記憶があります。父が医師のやりがいや美容整形医の面白さを語る。熱弁を振るいます。さらに女性の美について自説を懇々と語ります。性別、今でいえばジェンダーの特徴を語れば、そのまま美容整形での性的働きまで話が到ります。自分の父が話すのですから、聴き入ります。でもふと考えたら、父は自分が出て行った言い訳や正当化する説も含んでいました。
銀座整形に何をしに行ったかといえば、第一に生活費を受け取りに行くのですが、さすがに毎月の様に現金を持って帰る訳にはいきません。父は最初は拒否したのですが、何回目かに口座への振り込みを承諾しました。とはいっても、私には小遣いをくれるのでやはり定期的に行くのでした。そのうち父子の会話も楽しくなっていました。上に述べた様に一時は言い訳に聞こえた話も、何度も聴いているうちに引き込まれるようになりました。私はいつか父の後を継いで美容整形医になりたいと想い始めました。まるっきり父の作戦に引っかかったようでした。逆に言えば、父が帰らなくなっても、それは美容整形医としての責を全うしたいからかも知れない?とか、美容整形は面白いし女性に夢を与え、感謝される。時には愛される?。患者さんと父は、診療中に男と女の闘いをしている様にも見え、これは面白そうな仕事だとも感じさせられました。どんどん作戦にはまっていく私でした。
それではその間母はどう考えていたのでしょうか?。今となっては死人に口なしですが、当時徐々に気持ちが和らいでいきました。もちろん父が転がり込んだ事務掛の女性に対しては恨み骨髄憎くて殺してやりたいようなことは言いますし、逆にあんな人間は殺す価値もない飯炊き女だと罵倒しました。亡き母はこの点に於いては筋を通し続けました。老境に入るまではですが。
なんか気持ちが揺さぶられながら書いています。結構重い話になりかけたので一度切ります。今後は番外編を少しずつ進めながら、歴史編も再開します。あっ、でも見直してみると、番外編は美容整形医としての父とその家族の話題ですから、美容整形の歴史の一つの断面でもあります。美容整形は男と女の闘いの場だからです。