歴史編最期段で話すはずの話題ですが、母と父の話題はもうすぐ終わりますから先行します。
父は平成17年に逝去しました。その際、母を会わせようと呼びに帰りました。臨終には間に合わなかったけれど、声を掛けました。さすがに何と言ったか覚えていませんが、そこにいた事務長は退散しようとしたので、母は誇らしげに「長い間面倒見て下さってありがとうございました。」と毅然と告げ、「あとは子供達と孫達と私が執り行いますからね。」と宣して、私が喪主扱いで式まで済ましました。何しろ父は私生児で、親戚は一人も居ません。母の兄弟は結構父と繫がりがありましたから、母の兄弟を呼んで弔うしかなかったのです。
もちろん、美容外科の斯界の面々には知らせましたが、みなさん焼香だけにしました。今でも覚えています。高須先生は例の渋面で深々とお辞儀していました。先日逝去した梅沢先生は涙を流してくれました。そのあたりの話は歴史編の締めにもう一度書きます。
とにかく焼いてすぐから骨は母が預かってくれて、位牌も作ってくれました。母は私の住む家の近くのアパートに住みましたが、仏壇は無くてもいつもお線香を絶やさないでいてくれました。節目の日や毎年の命日や盆暮れお彼岸は、家族でそちらに向かい拝みました。年に数回は母と私の家族で新宿区の墓に参りました。母は70歳代ですから、孫と出歩く機会も減っていましたから、その繋がりが嬉しかった様です。弔いは亡骸に会うことですが、遺された誰かが見ないと墓も位牌も傷んでしまいます。母はそうして自分の家族を繋ぎ止めていました。約10年間勤めました。
何故此の様に感嘆するかは美容整形屋という稼業の特徴というか澱があるから、”美容外科医の家族も辛いよ”だからです。女性が相手だから、女性が憑き物で、周りの女性が割を喰うのです。
なおこの”美容外科医の家族“番外編はあと2回で終える予定です。