何故此の様に感嘆するかは美容整形屋という稼業の特徴というか澱があるから、”美容外科医の家族も辛いよ”だからです。女性が相手だから、女性が憑き物で、周りの女性が割を喰うのです。
実はこの番外編を何で書いているのかと言うと、母は亡くなったので、母は恨みを晴らす機会を失いましたが、私はもう終りにする為に、ここで吐き出して書き連ねて、封印する為です。
私と母は事務主任に父を取られた気持ちを生涯持ち続けます。とはいっても父は仕事場でも、赤坂の住処でも、長い時間同行していますから、もう戻るつもりは有りませんでした。仕方ないのですが、私達周囲は父を許しても事務主任を許せませんでした。父と事務主任は最期の頃は日本橋に転居していました。父の遺品は当然そこに有りますが、事務主任は整理の為もあり、父の死後も数ヶ月住み続けます。もっとも、父の遺品は特に金目のものは有りません。遺産も大きなものは負債の方が勝っています。
でも一応見に行きました。金目のものは見つからなかったのですが、父の母つまり私の祖母から受け継いだ真剣が押し入れの奥から出てきました。そういえば祖母が存命の際に言っていました。祖母はその父が軍人で、その際に賜った名刀だと聴いた覚えがあります。でも今どき無許可でそんなものを持っていたらやばいので、警察に提出しました。事務主任は金目のものではないから、最初から知らぬ存ぜぬで私に面倒な事を押し付けました。そこで恨みは倍加したものです。
母に教えてあげたら、酷い人ねって嘆いていました。そこで、その住居を教えてあげたら、仇討ちの計画を立てました。さすがに母は70歳を超えていますが、私は表立って関わらないことにして妻を就けました。実行したのですが、怖くなって、会ってすぐ一回殴って帰って来た様です。とりあえず二人も相手も生きていたので、今となってはよかったと言えます。死んだらさすがに連絡をくれる人が居ますから、事務長は現在も存命の様です。
母はその後、件の話しには触れなくなりました。代わりに欠かさずに毎日父の供養をしてくれました。折に触れて私達家族も、参りました。私は母に「敵を討ちたくないのか?」と迫りましたが、母は「そんなこと言ったってもう無理だし、これからはあいつに負けない様に長生きしていたいのよ!。英君が大きくなるのも見守りたいし。」私の末っ子を引き合いに出して、密かに恨みを込めて宣言しました。
今となっては、母の心は覗きようがありませんが、この言葉通りにその後約10年は生きたのですから、大したものです。さすがに額面通りに私の末っ子が成人するまでは見届けられませんでした。私は今こうして書いていながら、その点だけは残念でした。感動で胸が熱くなってきましたから、一度止めます。
そうですね。父の死後は母は生きている間は森川の家族を見守り、父の後を継いだ美容外科医としての私をも心の中で援助しつつ、父の供養もしたのです。
次回はその後母が父に心の中でどう接してきたのか?、そしてだから、母が亡くなってから私達残された者達はどのように生きていけばいいのかを理性的に書いて、番外編を終わりにしたいと思います。