2016 . 10 . 7

美容医療の神髄-歴史秘話第61話-”口頭伝承”:美容整形屋と美容形成外科医”その37”「相模原編3」

思い起こせば、12年の形成外科診療の経験は私にとって為になり、しかも面白かったとしかいいようがありません。でもそれにかまけて、医学研究者としてのデュティーを怠って来ました。13年目に研究員になり、研究に専念しようとしたのですが、いざとなると何から始めていいか解からず、右往左往しました。実質的に、医療の一部としての研究に初めて専念することは、医師としての守備範囲が増えることです。一段ステップアップする機会です。

眼瞼のテーマは私のライフワークです。昭和36年に開設した銀座美容外科医院に於いては、父は切開法重瞼術の名人と呼ばれて来ました。医師になって直ぐから、私もその称号を継いでいきたいなと思うようになりました。

北里大学形成外科医局に在籍して、大学や出向病院で診療していても、私は眼瞼の手術をする際には気合いが入りました。記憶を辿ると、4年目に眼瞼のほくろを切除させてもらったら治りが悪くて、上司に怒られた。その後、眼瞼は細かく丁寧に縫合することを意識する様になりました。5年目に眼瞼の扁平母斑を重瞼術のデザインで切除する機会を、当時助教授のUc名誉教授の前立ちでさせてもらう際に、彼から「お前はこれからこの様な手術を沢山することになるんだ。最初に私が教えるから忘れない様に。」と諭されてその親心を嬉しく感じたこと。6年目に眼瞼下垂手術を初めてする際に、都合で一人で始めたら、挙筋腱膜が同定出来なくなって、途中から来た上司に助けてもらったこと。その後は日々上手になりましたよ、感謝しています。7年目から本格的に一人で手術をするのですが、眼瞼の手術がたまにあると、精魂を込めて手術しました。写真を揃えて市民医療講演したら、次々に来院する様になりました。その頃から、銀座美容外科でも眼瞼の手術を譲ってもらい、どんどん症例を重ねました。チェーン店にバイトに行くと、切開でも埋没でも私には眼瞼と鼻の手術ばかり廻してくれる。頼んだ覚えは無いが、形成外科医にとっては得意分野と思い込んだのか、それとも若しかしてまさか、父の称号を継いでいると感じたからかは、今となっては判りません。9、10年目もバイトで経験を積みますが、眼瞼が半数でした。その頃折よく松尾先生が形成外科での眼瞼下垂手術を売り出し、11年目は、眼瞼下垂手術を沢山しました。紹介で症例が芋づる式に来ました。12年目は銀座美容外科で症例が豊富でした。一応病気の父の代わりですから全例私が受けました。

その頃教授に就任したばかりのUc先生が「最後の研究員の資格で医学博士研究をしなさい。」と提案してくれたのですが、その年の暮れにはテーマの設定と準備が差し迫っていました。教授には医局員に医学博士を授与する権限がある代わりに、優位な研究テーマを見つけるアドバイスと場の設定が求められます。もう一つ費用をどこから出すかですが、だいたい大学からか厚労省からか、はたまた企業からかです。その前のS教授は企業から継続的に受託研究費を出させていました。だから毎年数名の博士を輩出していました。ただし計上する費用の一部をポケットに入れていたという説がありました。のちに知りましたが、研究員が手助けしていた様です。今なら新聞種ですよね。それは置いといて、Uc教授は就任後研究のテーマと場を模索していたのでしょう。就任後2年は博士を輩出していなかったと思います。彼は高潔なので、企業からのおこぼれを求めようともしませんから、費用は大学から出させようとしていました。ただし、出向病院からの受託研究費も募っていました。高位の医師を派遣する為に、医学の発展の為にという高尚な意欲があるのでしょう。

前年から、解剖学教室との共同研究を相談をした様です。通常でも、研究の多くは基礎医学教室の助力が必要です。場所と人的資材と、道具と材料は、私達臨床家が持っていても常時使う訳では無いので無駄だからです。しかし多くの旧設大学(昭和45年より前からあるという意味)では、通常臨床科が研究室を医局室に併設して作っていました。診療のデュティーが無いときは医局という休憩室みたいな大部屋に入り浸りながら、隣の研究室にも顔を出して、時々か入り浸って研究するのです。だから場合によっては一年次から研究に携わる医師もいます。それでは臨床的能力の修練がおろそかになり得ない弊害もあります。そして多くの大学では、付属病院と大学は離れています。医局と研究室は大学にあり、教授陣としての卒前教育の場でもあり、大学院に準じた卒後研究の場も備えます。病院にはたいてい担当病棟の近くにカンファレンスルームがありますから、レジデントクラス(概ね6年時まで)はそこに常在して、臨床研修に専念しています。

北里大学では、医学部棟に研究員以上の教授陣の居室とデスクがあり、文献の読破や学会発表の準備や論文の作製の為にデスクは山積みです。さらにその頃からパソコンが普及したので、置く場所もいっぱいでした。臨床のデュティーは卒後臨床教育の目的も伴うので携わらなければなりません。病院には、外来室の横にカンファレンスルームがありますが、週一の外来担当日と火曜日の全員カンファレンスの時しか出入りしません。病棟には若い医師が詰めていますが、担当患者がいれば教授陣や研究員も出向く必要があります。総回診日は下級医にアドバイスの為に緊張します。このように北里大学では研究員もいろいろな場所へ移動しなければならず、研究室に入り浸る暇はす少なかったのですが、週に二日半程度は解剖学の研究室に常在できました。

研究科や臨床科を教室とか講座と呼ぶ旧来の風習があります。これは、卒前教室の教授を中心としたグループと、卒後教育のグループという意味で教室と呼ぶのでしょう。講座とは、学問単位のグループという意味でしょう。場所という意味では、研究室が教室で人的には教授を中心として講座を開いていることになります。北里大学では臨床科には教室と呼べる研究室はありません。卒前教育でも系別教育と言って、各臨床科が講座を持たずに分野別に講座を開いていました。基礎医学教室は研究室を与えられます。研究が第一義だからです。どこが教室です。基礎医学は講座もそれぞれが開設していました。ただし研究室は大部屋以外は用途別に部屋があり、予め使用目的を告げて使用申請をする必要もありました。そこで、私達臨床科の医師は基礎医学教室に頼んで、人員と機械と設置する部屋を使わしてもらうのです。いくつかの研究室は共同使用で各科の医師が出入りしていて、いつも機械の取り合いみたいになっていました。

本題に戻ろうと思ったのですが、長くなったので次回に。