2015 . 9 . 17

美容医療の神髄21-歴史的経緯第21話- ”口頭伝承話”その21

入局してすぐに、いきなり講師の先輩医師にこう教えられて、私は道を間違ったかと思いました。「美容外科の患者はおかしい人が多い。精神的にだ。」「そもそも、美容整形は邪道だ。」

美容外科の申し子で、形成外科に入局したのは将来美容外科をするためであろう私に対して、いきなりこんな罵詈雑言を浴びせたのでした。いや別に私に向かっていったのではないかも知れませんが、非形成外科医で美容整形上がりの美容外科医の子である私のスタンスを、形成外科側に引き入れる目論見でもあったのでしょうか?、それとも単に美容外科を知らないだけなのか?、嫌いなだけなのか?。いずれにしても、美容外科を貶める説でした。私は形成外科に入局してすぐ、場違いな雰囲気を感じました。

でも逆でした。これは自分たちが美容外科をできない。患者が来ない。広告宣伝で患者を取るチェーン店とは競争にもならない自分たちが、美容外科院に行く患者、ひいてはそのクリニックという相手を貶めることで溜飲を下げる屈折した心です。それも一部の医師でした。

確かにその意味なら判ります。私が形成外科に入って間違ったかと思ったのは、本当に美容外科に否定的な形成外科医が多くいた面と、結局チェーン店の非形成外科の美容整形屋を駆逐できなかったなら、初めからそこに身を置けばよかったとの後悔の念の二つあったからです。

しかし、私が美容外科医の子であることは事実です。一部の医局員は美容外科を見下しますが、一部には将来的に美容外科をしていきたい医局員もいました。そう言えば、学生時代に形成外科の実習を回ったときに感想会で勧誘してくれた先生=F先生ですが、何かと可愛がってくれました。そもそも、その学生時代に「私は美容外科開業ワークショップ委員会を一人で立ち上げたんだ。」「塩谷先生も賛成している。」「入局したら、当然ながらお前を委員に任命するからな。」とか言われて、その時は意味が解らなくて「何言ってんだろう?。」と思ったのでした。

医局というのは大学の科で卒後研修をしていくグループで、1年目が数人、2~5年目が数人、6年目のチーフレジデントが2人で、ここまでがレジデントです。レジデントとは訳すと常勤医ですが、要するに認定医取得前で、卒後研修中=勉強中という立場です。その上には、当時は助手、講師、助教授、教授がいて、彼らも二手に分けて、レジデントも2つのチームに分けて診療と研修していくのです。チームが違っても、居室は共にするし(これを医局室といいます。)一堂に会する機会も、回診や、症例カンファレンス、朝のカンファレンスなど多く、大学病院勤務の先生は常日頃交流します。

ちなみに医局員とは、大学病院に勤務する医師だけでなく、関連病院に出向している医師も含みます。関連病院とは、教授を中心とした医局というグループが人事権を行使して、医師を出向派遣する病院です。関連病院は育った形成外科医を得られるし、医局としては大学の定員からあぶれた医師を受け入れてもらえるのです。所謂ローテーションです。当初は1年目の医師が全員大学病院に務めますが、徐々に派遣されていきます。また、多科研修もコースにあります。大学病院でチーフレジデントを務めるまでは出向が多いです。

とにかく昭和62年6月から、北里大学形成外科医としての人生が始まります。大学医局での医師として、形成外科の研修医を始めます。さて、形成外科医局のアドバンテージはどこにあるのか?、当方には明確な認識がないのですが、先輩医員はまず医療行為を手を取り足を取り、時には怒鳴りながらも、優しく教えてくれます。医学ではなく、まずは医療行為のノウハウからです。具体的には、注射や採血法等、患者の診察や聴取法、薬や指示のオーダー等の仕方を教えてもらいます。所謂オリエンテーションみたいなことからです。毎日7時には出勤して、朝は採血や注射から始まります。その後その日の手術予定に対する術者のプレゼンがあります。これが勉強になります。いろいろな手術を見て覚え、そのうち1年生にも手を出させてもらえます。帰りには40人病棟患者のチェックをしながら、翌日の手術等の勉強もしておきます。たいてい22時頃になります。体力的に大変だから、12月からは病院敷地内のドミトリー、要するに寮に転居しました。

こうして、大学病院の形成外科医局員としての生活が始まりました。そのときは形成外科医療の研修に没頭していました。体力的には辛く、要するに丁稚奉公みたいな生活です。所謂徒弟制度です。でも先輩医師が皆優しかった。6年目のチーフレジデント以下4人程の先輩医師に金魚のふんみたいにくっついて患者の前では盗み学び、後で教えを請う。こうして医療行為を覚えていく、形成外科の手術前計画、手術の手伝い、手術後経過観察と、診療の手順を覚えていくと、その面白さの虜になっていきました。

その一年は忙しいから当たり前だけれど、父との美容外科での接点は数少なかった。2ヶ月に一回くらいはゴルフに同行していましたが、何を語り合ったかは、あまり覚えていません。「形成外科では何やっている?。」とはよく聴かれたし、「よく勉強しなよ。」といわれて「どうせ今は下働きだから。」と私が言えば「医局ってそういうものだ。徒弟制度とはこのことだハッハッハ。」でした。

その後、私が植皮や、皮弁の勉強を進め、形成外科疾患の知識を得て教えようものなら、「整形外科は大工、形成外科は皮張り屋いや傘張り職人みたいなものかね。美容外科そう美容整形は芸術家だぜ。世界が違うんだ。」と父はのたまうのです。これには悲しいやら、おかしいやら、金儲け主義の美容整形屋と卑下されて来た父は、形成外科を貶めて美容外科を高みに於こうとする意識があり、敵愾心の近いものを私に当てこするのでした。

後日、さらに私が形成外科医として成長し、美容外科医療を包含するまでの知識を身に付けて、父と学術的議論をする様になると、父は耳を貸す様になります。6年生になる頃です。7年目には認定医の試験を受けるので、知識と手術経験は一通り得ているからです。その点について父は前言を忘れたふりをして「やっぱり形成外科、それも北里形成外科に入って得したな。」とか言うし、かといっては「早く美容外科を一緒にやろうぜ。」とばかり言うのです。私がその気になるのは11年目からでした。それまでの経過、だんだん濃厚になる形成外科医としての美容外科との接点、前のめりになっていく私と父の交流。

医師1年目の思い出はこんなところです。2年目になると勤務が変わります。ここらからは、私の医局人生と、父との接点が深くなります。