2016 . 1 . 8

美容医療の神髄33-歴史的経緯第33話- ”口頭伝承から、自分史話へ”その10

しばらく症例提示が続き、また年末年始はお休みしたので、久し振りの歴史秘話?再開です。

チーフレジデントを終えて6年間の研修医生活を卒業し、日本形成外科認定専門医を取得する資格を得て7年目の冬に受験します。研修医とか専修医という下っ端ではなく、大学病院では医療スタッフ、医学部教員として一応助手という教員。医局内では研究員という地位です。まだ、医師としては7年目です。

研修医や専修医(後期研修医)は医療を学びながら、診療をしていくことが仕事です。対して7年目からは診療、教育(対学生と下位医師)、研究の三本立ての仕事となります。

医療スタッフとは、診療時に一人で責任を持つ医師で、場合によっては先輩医に助力をあおぐことも有るとしても、逆にレジデントクラスの医師には指導教育の責任もある者です。大学医学部では学生の講義まではしなくても、講義の手伝いくらい(例えばスライド操作)はすることもあります。もっとも出向したらその暇はありません。研究員とは北里大学の職種ではないのですが、6年間のレジデント研修を終えたら、診療の合間に研究をする時間が与えられるからこう称されます。研究とは、医学博士までも含む基礎研究だけでなく、臨床研究も含み、また学会発表や論文執筆も奨励されます。そういえばチーフ年次にも、学会発表の為の臨床研究として顔面骨骨折の統計的解析を調べました。週1回の研究日をもらい、横浜から相模原に通い、図書館やカルテ庫に籠もり毎週調べ続けたのです。ですから、研究日にも銀座に手伝いには行けませんでした。

という訳で7年目に研究員レベルの立場でどこで何をするかを相談することになるのですが、私に対しては当然!・・大学病院の先進的医療よりも、一般病院での臨床的医療を修練した方が、将来開業するつもりである私の為になると、優しい上司の先生方々が配慮されたのでしょう。茅ヶ崎徳洲会総合病院に一人医長として出向することになりました。

つまり、研究員といっても大学での基礎研究に携わる機会は週一回あるかないかで、大学の助手業務も不可能。一人医長だから下級医を教育する義務もない代わりに助けてもらえないので、形成外科領域の救急診療に応じる義務も常時に一人で負う訳です。

大学病院の医局員の仕事は、診療と教育と研究の三本立てであると、教授は強調します。父もよくそう教えてくれました。ところが出向すると、診療がメイン、いや一人だとほとんどオンリーになるのです。でも逆にいえば診療経験を伸ばせる。場合によっては臨床研究くらいは出来る。それにこの年次でラッキーだったのは、形成外科専門医の取得に向けての書類作成と試験勉強の為の時間が作れることでした。

同じことを繰り返すようですが、当時は大学医学部を卒業して医師国家試験に合格して医師となると、ほとんどの者が大学病院の医局員となりました。現在は臨床研修制度があり、卒後2年の研修病院は医師が選んで病院とマッチングします。3年目から医局員になります。大学の医局とは、科目ごとに存在するグループで、主任教授が主宰します。診療は専門分野ごとのスタッフがプランを立てますが、研修医クラスは自らの知識の範囲で考えて、スタッフと相談しながら、全員の前でプレゼンテーションして方針(外科ですから主に手術法)を決定します。ですから、研修医は沢山の症例を勉強出来ます。これが卒後教育です。診療の精度は医局単位で高度化されていきます。またほぼ全員が学会に加入していますから、その科目での全国単位の医療水準を取り入れることが出来ます。とは言っても症例がなければ経験出来ません。その意味では大学病院は症例が豊富で、形成外科では北里大学病院は全国有数でしたから、私はこの医局に在籍したことが幸せでした。

しかし、大学病院には医師の人数枠があるため、何人かは関連病院に出向しなければなりません。関連病院とは、大学病院の医局が派遣する口約束をして医師を派遣します。一般病院では専門科目の医師の研修が出来ませんから、大学で研修した医師を派遣してもらうしかないのです。大学医局からは出向先が得られるメリットがあります。建前上大学病院の医局は研究と教育も義務ですから、病院から研究費ももらいますし、規模によっては研修医も派遣します。一般病院での診療では、大学病院程の高度な医療は施設や人員的に限界がありますが、逆に何でも診なければならないから、意外とバラエティーに富んでいるし、大学病院と違って患者さんを密に診療出来るから、医学だけでなく、人間的にも勉強になります。

茅ヶ崎徳洲会総合病院は、言わずと知れた徳洲会グループの病院で、今は問題を起こしましたから縮小傾向ですが、その頃(20年前)は飛ぶ鳥を落とす程の勢いで、拡張の一途でした。当初は大阪で創業したグループが、関東の第一号病院として昭和47年に作ったのが茅ヶ崎徳洲会総合病院でした。私より4年前から先輩医師が派遣されていました。私が、北里大学形成外科医局から派遣される三代目の一人医長でした。また北里大学からは、小児科の医師も派遣されていました。外科医と内科医だけが徳洲会グループ内病院で養成されていて、他科はいくつかの大学からの派遣出向医でした。

赴任当初は余り症例がありませんでした。週に数例でした。でもそこは張り切り坊やの私!、徐々に症例を掘り出していきました。掘り出す為には、病院の他科の医師に認知してもらわなければなりません。何しろ多くの大学医学部で形成外科の授業がありませんし、当時は全国の大学医学部の半分以下にしか形成外科の診療科目がありませんから、見たことも聞いたこともない医師がほとんどだったからです。実際に一般病院での形成外科医療に没頭していくとどんどん面白くなっていきました。

長くなりましたので、診療の内容と研究日の身の振り方は、次週以降に話を繋いでいきます。