2015 . 7 . 10

美容医療の神髄14-歴史的経緯第14話- ”口頭伝承話”その14

大森派=大学形成外科出身の美容外科開業医と、十仁派=美容整形時代からの開業医は相容れない出自を持っていましたが、美容整形か整容外科か形成外科からか、いずれにしても標榜後美容外科医となった訳で、同業者です。実は交流は以前からあったのですが、開業医同士でも一部で親交がありました。特に、単独開業医が広告戦略&多店舗展開のチェーン店系に押され始めて来たから、個人開業医が集まりだしたのです。それが現存する臨形です。今回はその話から入ります。

その前にもう一度、学会等の関係性とその経緯の整理をしておきます。

日本でも、戦前から美容目的の治療をしていた医師はわずかに存在しました。十仁病院は男性部門を主に診療していました。大学病院の医師の中で、眼科で重瞼術。耳鼻科で隆鼻術をしていた記録はあります。

戦後十仁病院は美容整形を積極的に売り出し、高度成長期に興隆しました。同時に父を始めとした美容整形医が雨後のタケノコの如く出現しました。その頃、USAやヨーロッパから、形成外科的なつまり、傷病を綺麗に治す美容医療が導入されました。主に大学病院や警察病院を始めとした大病院の先達が学びました。同時に彼らは美容目的の医療もしていました。

こうして当初から、十仁病院を中心に美容整形を診療する開業医グループが学会を始めました。㈶日本美容医学研究会が主宰する日本美容整形学会です。

もうひとつ形成外科を、警察病院や大学病院の医師が昭和31年に学会を発足させました。その中の一部の医師が整容外科という名の分科会で美容医療の研鑽をしていました。

ところが、昭和51年に形成外科だけが標榜科目になり、当時の理事長が「美容はしない。」と厚生省に約束ました。美容整形を異端扱いしたからです。しかし、昭和53年に形成外科学会内の整容外科医グループと美容整形の開業医グループが対立しながらも根回しして、整容外科でも美容整形でもなく、新しい科目名称である美容外科として標榜科目としました。

そこで学会名は、標榜科目名を付けることになるので、二つのグループが同時に二つの日本美容外科学会を発足させてしまいました。新にではなく、形成外科医は整容外科研究会を、美容整形医は日本美容医学研究会を改名しただけですが、これが混乱の元となる訳です。ただし、英語名に違いが生じました。形成系はJapan Society of Aesthetic and Plastic Surgery(JSAPS):訳すと日本美容形成外科学会とし、十仁系はJapan Society of Aesthetic Surgery(JSAS):訳すと日本美容外科学会としました。 そこで、二つの日本美容外科学会を分けて称する必要がある場合には形成系=大森系(警察病院形成外科の大森清一部長が中心人物であったから)をJSAPSと呼び、美容整形系=十仁系=非形成系をJSASと呼び区別する様になりました。

二つある学会とは別に、職域団体である公益法人をそれぞれが立ち上げました。JSAPS系が日本美容医療協会を、JSAS系が日本美容医師会をです。どちらも平成に入ってからです。

ところで日本臨床形成外科医会というのがあります。本来美容外科を診療する形成外科からの開業医有志が集まった勉強会でした。しかし敷居を設けないで、十仁系の医師も参加しました。ただしチェーン店系の医師は入れません。主にJSAPSメンバーですが、JSASメンバーである十仁病院の梅沢先生等も参加していました。

ここで時系列に話が戻ります。私が北里大学医学部在学中には、遠方で父との交流が少なかったのですが、卒業前に斯界に参加する機会が2度ありました。その一つが、臨床形成外科医会です。もう一つ、日本形成外科学会を北里大学医学部形成外科教授が開催した時に、父と参加したのです。念のため述べておきますが、北里大学形成外科の塩谷信幸教授はもちろん大森派どころか一の子分みたいな関係です。ちなみに父は形成外科医ではありませんが、私を北里大学に入れたので、形成外科を知ろうとしました。実は「講義を録音して教えてくれ!」と頼まれたことがあります。でも形成外科や美容外科は視覚的な医学ですから、役には立ちませんでした。

話が行ったり来たりしましたので、私の大学卒業前後の話題は、次回掲載するということで。