2016 . 4 . 21

美容医療の神髄45-歴史的経緯第45話- ”口頭伝承”:父は美容整形屋、私は形成外科・美容外科医。自分史話へ”その22”

”キャッチフレーズ”は、「二つの日本美容外科学会を一つに!」こうして父はコウモリになっていくのでした。コウモリとは、洞窟の中であっちとこっちの壁を飛び回る動物を比喩していわれていたのです。私は二股とも表しました。そして私も巻き込まれていきます。今回そこからですが、北研での父の懐古談もあります。

私が数多くのバイト先で非形成外科医の美容外科医と交流する様になり、父も各院長に学会で声を掛けられたようです。平成8年(1996年)の10年次に北里研究所病院形成外科・美容外科に勤務しながらです。その前に日本美容医療協会の動勢から。

協会は、1992年に平成4年は私のチーフ学年時に発足しましたが、当初は15人の理事に十仁病院のU院長を発足時の理事としていました。他は皆、大学の形成外科の教授陣と形成外科出身の(警察病院が主)美容外科開業医でした。発足時には日本美容医療協会に入会する際に、日本美容外科学会JSAPSと同時に入会する条項を設けました。

そこで、日本美容外科学会JSASの理事長である十仁のU院長を理事にしたのは、これを二つの日本美容外科学会を合併させる目論み、または日本美容医療協会を二つの日本美容外科学会の上部団体として存在させる事により、JSAPSがJSASの吸収を狙った行動だと思われます。穿った見方で陰謀論めいているかも知れませんが、そうでもしないと理解出来ません。因みに日本美容医療協会は厚生省管轄の公益法人格を取得しましたから、美容医療の斯界では本邦で最上位の公的性を持つ団体となります。しかしU院長は、そんな策は見抜いていたのでしょう。次なる策として、日本美容医師会と言う団体を発足させます。これは業界の親睦団体ですが、公益も担う定款を立てました。

そして日本美容医療協会の理事の任期は2年としたのですが、2期目にはU院長を選出しませんでした。合併策がうまくいかなかったからでもありますが、発足時には曲がりなりにも二つの日本美容外科学会の上部団体の形で厚生省の管轄を受けてお墨付きを得たのに、JSAS側はやはりJSAPS側に吸収されて、何かと有位に立たれる危惧を感じ取ったのでしょう。

こうして、JSAPSが主導して発足した日本美容医療協会ですが、何を目的としたかと考え直してみれば、二つあります。

一つは形成外科出身の美容外科医が主導権を握る事です。建前として卒後に形成外科を医局で研修する事で、美容外科医療の知識の基礎を学べるはずだからです。確かにそう思います。大学病院等で勉強しながら、診療も覚えていく事が出来るからです。開業してからでは、そんな暇がある筈がありません。

もう一つは宣伝広告に頼らないで患者が美容医療にかかる事が出来る様にすることです。要するに宣伝広告により集客していればその分の経費がかかるのは当然です。その分の料金を上乗せして請求するか、診療の時間を短縮するかのどちらもが要求される訳です。これは具体的には手術を含めた治療前の説明の時間を短縮するか、手術を簡単にするかです(手術中は患者は知り得ませんから・・)。そしてこの循環はエンドレスとなります。当時最大のチェーン店Kクリが売り上げの半分を広告費に費やしていたのは本人から聴いたら確かです。そこがどんな診療をしていたかは推して知るべしです。

日本美容医療協会の施策として、広告規制を打ち出しました。本来医療機関の広告は医療法という法律で範囲が狭められています。ところが、チェーン店は名刺程度の広告に出版物の広告として詳しい説明を加えて法の目をかいくぐっていたのです。そこで日本美容医療協会は策を練りましたが、さすがに摘発する為の権力は与えられていないため、結局何年間かは改善されませんでした。

日本美容医療協会は、医療としての美容医療の安全性を高めるとの本筋とは別に、その為にはJSAPSとJSASを合併させないと有効な方策が立てられない(つまり吸収)との本音でも動いていました。J病院のU院長を理事にしたのはあくまでも作戦でしょうが、合併=二つの日本美容外科学会を一つにする=日本医学会に加入して日本医師会による厚労省との折衝手段とする&公的認定制度を使って差別化を図る=広告に惑わされないで患者さんを誘導する。等等の案は正しいとは思います。少なくともあれから20年以上経て、その方向性でゆっくり進んできました。

ところが、U院長は吸収合併を危惧して脱退しました。そこで、父が立ち上がりました。本ブログのこの回の冒頭に記した様に、父は「二つの学会の合併!」を当初から唱えていました。昭和51年に形成外科が、昭和53年に美容外科が標榜獲得する際から、父は関わっていましたから、日本美容外科学会が二つ出来てしまった事を大変悔やんでいましたし、関わっていたからある面では責任も感じていたのです。昭和51年より以前に美容整形に携わる二つのグループ形成系と十仁系が対峙する中で、父はどちらのメンバーとも交流がありました。ましてやその時点では既に生存する(現役という意味も含め)もっとも年長者の一人でしたから、標榜を機に学会を立ち上げて中心になるつもりでもいたのです。後年何故こうなったか思い返してみて、父は「十仁の資力政治力対警察病院と大学形成外科系の学力と官僚主義の対立がこういう結果を生んだと考えられる。」と悔やんでいながら、二つの学会の合体化に執念を燃やしていました。

さてどうするか?。J病院のU院長が日本美容医療協会の理事に選任されていれば、二つの日本美容外科学会の合併?、吸収?、スムースな一体化の道が残されていたのに、U院長が止めたらその機運は潰える。頓挫する。少なくとも停滞するでしょう。父は悲しい想いでした。また焦りました。そこで、自らがその架け橋になるべく蠢動を起こしました。考えてみれば、私が北里大学形成外科に入局した結果JSAPS側により足を踏み込む事が出来たのです。父は「一彦をよろしく!」と言いながら顔を繋いでJSAPSに頚を突っ込む機会を増やしてました。

1996年=平成8年=私が10年生(北研在籍中)に父は日本美容医療協会の理事選に立候補をすることにしました。JSAS側の重鎮として、JSAPSが主導して作った公益法人にも足場を置く事で合併の方向性を後押ししようという決意です。方法論は次回として、私の北研での診療とバイト三昧の美容外科診療歴、父の北研での懐古と関わりについては次回に続きます。

次いで、JSASで父が会長するのは1996年=平成8年=私は10年生(北研2年目)と1999年=平成11年=私は13年生(大学にて研究員)ですが、私は平成8年には加入だけします。11年には発表もします。そのいきさつは後段とします。また日本美容外科医師会は1997年平成9年に発足しました。その後の変遷も後段に廻します。

次回は日本美容医療協会理事選出馬に当たる策と、北里研究所病院での父と私二代に渉る在籍の意味。次いで、私のバイト歴。JSAPS側とJSAS側での二人の行動について記していくつもりです。