2016 . 5 . 12

美容医療の神髄46-歴史的経緯第46話- ”口頭伝承”:父は美容整形屋、私は形成外科・美容外科医。自分史話へ”その23”

1996年=平成8年=私が10年生(北里研究所病院に出向2年目)に父は日本美容医療協会の理事選に立候補をすることにしました。JSAS側の重鎮として、JSAPSが主導して作った公益法人にも足場を置く事で合併の方向性を後押ししようという決意です。その方法から書きます。

そもそも、私が非形成外科の美容整形外科医(父は好んで自称していました。)の父の下で美容外科医を目指していたのに、当時既に増え始めていたチェーン店系に就職しないで、北里大学形成外科に入局し、同時進行で父の下で父と共に美容医療を研鑽して来たので、二股になるのが当然でした。父はJSASでの立場は重鎮として確立していたので、次第にJSAPSにも頻繁に顔を出す様になったのです。

その際、私がそちら側にスタンスを置いているから、「お前を形成側に人質にとられている様なものだからな」とかなんとか、皮肉とも取れるし、私を出汁にしているとも取れるような発言を、JSAPS側でもJSAS側でも吹聴していました。

本来、美容外科が標榜認可された昭和53年にJSAPSとJSASの二つの美容外科学会が誕生する際に、父は両方に加入しました。発足会員として両方から専門医をも認定されました。だから、両方に顔を突っ込んでいましたが、形成外科の素養の無い父はJSAPSでは立場が弱かった。また、次第に大学形成外科出身の美容外科医が、チェーン店を目の敵として結束する様になると非形成外科医である父は鼻つまみ者化していったのです。敢えて更に言えば、学会の理事選等の投票は大学単位で取りまとめるから理事選なんて出来レースなのです。

日本美容医療協会は二つの美容外科学会の上に厚生省の管轄する公益法人として発足させる建前でした。つまり合併(吸収)を意図して作られました。JSASの主宰者である十仁病院の梅沢院長を理事に祭り上げて、JSASを懐柔しようとしました。ところがJSAPS側の中心メンバー数人が協会を利用して自らを宣伝したり、他のJSASメンバーを加入させなかったりして、やっぱりJSAPS主導の体制が目立って来たので、梅沢院長は2期目の理事を辞退する挙に出ました。

そこで父は立ち上がりました。「美容整形上がりの非形成外科の美容外科を軽視するな!。こっちが本流だ!。形成外科は形成外科で美容外科とは違うのだ!。」それまで堪っていた鬱憤が噴出しました。そして、「じゃあ俺が立つ。」と目を引ん剝いて決意しました。

さてここで私の出番です。先に述べた様に、私が形成外科サイドに居るから、父は形成外科サイドの医師とも繫がりを強めていたので、私の人脈も利用して根回しを図りました。北里大学形成外科前教授の塩谷先生にも伝えましたが反対されました。でも父が本気である事が伝わりました。当時の内沼教授には「大変な事するなあ。でも気持ちは解る。お父さんが勝手にするなら、させて上げなさい。でもお前は私の下に居るから変な動きはしない様に。」とは釘を刺されました。

そして父は郵便作戦を取りました。個別依頼というかローラー作戦に近い方法です。日本美容医療協会の有権者は、日本中の形成外科の医局員、それも年長者が主です。一般に形成外科入局者は早くても7年目までは美容外科を診療しませんから、日本美容医療協会にも日本美容外科学会JSAPSにも入会しません。(私は例外的に新入局時からJSASPSに入りました。)だから概ね講師以上が入会します。もっとも、理事選の票は確か7人連記で約7票で通る計算でした。どの大学も医局単位で取りまとめて、更にJSPASのメンバー間で調整します。政党と違って党議拘束されませんが、美容外科の世界に疎い地方大学の形成外科教授陣は、訳が解らないから学会中枢部の(JSAPS)の票割りに従う者がほとんどでした。ただし7名連記ですから、票を崩す余地がありました。

父は敢然と立ち上がりました。「ドンキホーテするぞ!」(まだ安売り屋はありません。)私が「どうするんだ?」と問うと。「これを手に入れた。」と見せて来たのが、全国医科大学教授陣の名簿でした。大きな書店には売っています。そこから、形成外科の教授、助教授、講師の名前をリストアップして、勤務先である医局宛に手紙を出そうというのです。まずはアンケートを郵送しました。何を訴えるか?。どうやって動かすか?。そこは気持ちの問題です。

記憶の範囲ですが、概ね次の様な2点です。日本美容外科学会JSAPSと臨床形成外科医会を母体として出来た日本美容医療協会が一部の中枢メンバーの既得権益に利用されている。具体的には協会の名を語って宣伝に利用している。これはおかしい。本来美容医療協会は公益法人で美容医療に携わる医師群とユーザーである患者の為の啓蒙活動が目的だった筈なのに本末転倒だと主張しました。そして、本来美容医療は従来の美容整形の時代からの開業医師が牽引して来たのに大学病院や警察病院の形成外科出身の医師が中枢であるのはおかしいのではないか?。広い分野の出身の医師が大同するべきではないか?。この様な訴えをアンケート形式で問う手紙を郵送しました。 返信封筒を入れて回答してもらうのですが、意見に(あくまでも内密に)賛同してもらえる教授陣を募る意味がありました。

しかし敢えてここで、もう時効なので記しますが、郵送アンケートに秘策が加えられていました。返信封筒に通し番号を書いておいたのです。そうする事で匿名での返信する医師が居ても賛同者が解る様にしたのです。

結果として回答率は高く、そのうち多くの医師から意見を得ました。しかも、賛同する意見が20人以上はあり、票を固めれば行けると踏む事に成りました。しかし、そこで横やりが入ります。私の先輩医師数名から、この行動が問題視されているとの忠言を与えられました。通し番号の件も、もちろんバレていました。政治家の選挙ならアンケート形式は違法性があり、マスコミの調査も無作為抽出ですが、日本美容医療協会の理事選には何ら規定がありませんでしたから。

父は気を良くして、次の手を打ちます。好意的な回答を返してくれた教授陣を選んで、もう一度依頼する手紙を郵送しました。その際も返信封筒を添え、同意を得ました。本当に票が固まりました。そして、父は日本美容医療協会の理事に選出されました。

それだけの事ですが、15名の理事に名を連ねる事に成りました。昭和36年から、つまりもっとも古くから美容整形を開業して来た父が、一度は排除されていたのですが、美容医療人の中枢に再び喰い込んでいったのです。

JSAPS;つまり大学形成外科が中心の美容外科に疎い医師達が、JSAS;つまり長く開業して前線で美容外科を診療して来た医師を排除して、美容医療協会を発足させたのですが、そこにJSAS側から十仁の梅沢院長が一人担ぎ上げられた後排除されたのに対して、二股である父が加わった事で再び合併への道が出来たとも言えます。

しかしその後も二つの美容外科学会は合併しません。その流れと動勢は今後話していきますが、平成7年当時の一瞬の合併策は私には、大きな動きをもたらしました。何故かと言うと、JSAS側のクリニックに大手を振ってバイトに行く事が出来るからです。こうして、当時最新の美容外科医療をともに研鑽する機会を得たのです。

そこで次回は私のアルバイト歴を記していきます。その上で北里研究所病院での父と私で二代に渉る在籍の話をちょっとして、その後のJSAPSとJSASでの二人の行動について記していくつもりです。

次いで、JSASで父が会長するのは1996年=平成8年=私は10年生(北研2年目)と1999年=平成11年=私は13年生(大学にて研究員)ですが、私は平成8年には加入だけします。11年には発表もします。そのいきさつはまたとします。また日本美容外科医師会は1997年平成9年に発足しました。その後の変遷も後段に廻します。