2016 . 5 . 18

美容医療の神髄46-歴史的経緯第46話- ”口頭伝承”:父は美容整形屋、私は形成外科・美容外科医。自分史話へ”その24”

その後も二つの美容外科学会は合併しません。その流れと動勢は今後話していきますが、平成7年当時の一瞬の合併策は私には、大きな動きをもたらしました。何故かと言うと、JSAS側のクリニックに大手を振ってバイトに行く事が出来るからです。こうして、当時最新の美容外科医療をともに研鑽する機会を得たのです。

それでは私のアルバイト歴を記していきます。今でこそ私は、美容整形上がりの美容外科医の下で育ち、”産まれながらの美容外科医”として生きて来たつもりです。でも、北里大学医学部を卒業した際に、母校の形成外科医局に入ってから形成外科の道に浸かっていました。

ところが、9年目に北里研究所病院に出向してからまた、新たな道が開けました。何が変わったのかと言うと、アルバイトを勧奨されたのです。しかも病院では紹介してくれません。何しろそのくせ、給料は新人医師並み、私には既に3人の子持ちですからとても食えません。そこで、上司の宇津木先生が見つけて来た美容外科医院それもチェーン店に、彼と週代わりでバイトに行く事にしました。それが始まりですが、折り合いが悪く数週間で辞めました。その十仁出身の美容整形屋は形成外科医である私達を見下したからです。同時進行で、関西のチェーン店クリニック;当時はまだ事件前の日美(平成10年に話題に上がります。)出身のO先生が東京駅進出に当たって出した支店に月一でバイトに行きました。どちらも余り医療レベルが高くは無かったので、一年以上の長期は行かなかったのですが、それでは暮らせません。

その頃前回の話題である日本美容医療協会での立ち回りが始まり、JSAS側の医師との交流も容認される雰囲気が起こり始めたのです。と同時に、JSAPS側の医師も、裏街道としてチェーン店へのバイトを求め始めていました。というかそもそも形成外科医は安易に美容外科診療をしてはいけないムードがあったのですが、やはり隠れて手を染めていた形成外科医は少なからずいたのです。それが徐々に露呈して来たのでもありますし、自粛ムードが外れていったのでもありますし、医局のたがが緩んで来たのでもあります。

更に言えば、非形成外科の美容外科医のうち、一部が形成外科医局在籍者を便利に使おうと考えたからでもあります。医局員は貧乏なので安くバイトで使えるし、技術的に有用性が高いものも居る。各大学形成外科医局の上層部もいずれは美容外科を診療したいし、そうしなければ食い扶持を得られないからでもあります。例えばある非形成外科の美容整形屋(父が仲いい、私も可愛がってもらった。)に、後年J医大の形成外科教授になる大先生がバイトに来ていたのは知っています。

本来、形成外科医が非形成外科医を非難して来た理由は、広告戦略とチェーン店という本来あるべきでない姿勢に否定的である事もありますが、美容外科の知識と技術は形成外科医局で学べるから、我々の方が優位性があると自負していたからでもあるのです。ならば隠れて行かなくてもいいのではないかと開き直ったのです。

因みに私は、非形成外科の美容整形上がりの美容外科開業医の子なので、医局からも暗黙の了解としてどっち側についてもいいとされていました。つまり私は本来二股だと捉えられていたのです。それまでは違っていたのに〜。猫被っていた訳じゃあないし。

まあまあ、そんな事言ってても仕方ないので、私はいくつものチェーン店系クリニックに電話で応募してみました。それも銀座美容外科でのアルバイト(週一で手伝っていました。)中に、そこにあった医事新報に乗っている求人広告に片っ端から掛けてみました。父も面白がって(チェーン店にスパイ行為に行かせたかったのかも知れません。)、「やってみろよ。もうこっち側(非形成外科)に戻ってもいいんじゃない?。」とか言うので、逆に私は「じゃあ、その際に銀座美容外科の森川だと名乗ってもいいな。」といい、本当にそうしました。当時父はJSASの重鎮ですが、チェーン店の姿勢には歯嚙みしていたのです。そんな私と父ををどう見るか、出方を見ようと言う考えもあったのです。

今でも医事新報に載っています。とんでもない高給を提示してあり、しかも経験不問とある。私は形成外科医ですが、父のところでバイトしてきました。だから経験者です。でもビジネス的なチェーン店方式の美容外科医療には何か違うノウハウがあるのだろうと考えました。だから、未経験に近い事にしました。

当時最大のチェーン店であるカナクリにはすぐ断られました。後で知ったのですが、既に形成外科出身の医師を数名雇っていましたから、不要だと言う事でしょう。後日談として、私と宇津木先生と塩谷先生とでカナクリの山子院長と面談した際にも何人かの形成外科医と会いました。その話は後にして・・。

2番手は品川に電話してみました。20近く前の話ですが、結構内容が面白かったので断片的には鮮明に覚えています。そこはチェーン店規模(売り上げ)的にも2番手でした。「こういう者です。」と電話すると、まず受付に掛かりました。医事新報に載せてある番号が受付に掛かるので、ビックりしました。「医事新報の応募の件です。」と言うと、「ちょっと待って下さい採用担当に変わります。」って新人ナースじゃあねえんだよっと言いたいのを抑えて待っていると、「今忙しいので後で掛けます。電話番号とお名前を。」と言われた。まだ名乗っていなかったのですが、「銀座美容外科の森川です。」と言ってみたら、「エエッ、何のようですか?。」だって。そういえば品川でトラブっていた患者さんが銀座に来院して取りなしたばかりでした。勘違いしたみたい?。一応電話番号を伝えて待っていたら、人事の採用担当がすぐ折り返して電話して来ました。「森川先生ですか?何の用ですか?。」と警戒しつつの口振り。私はむっとして「こんな高条件で雇っているんですか?、私ならもっと頂けますよね?。」とふっかけてみました。しばらく電話を保留され待たされて、「先生スパイでしょう?。」だってえ。更に「今回は見合わせてもらいます。院長は、学会でお会いしましょうと申しております。」なんだこれってことで。品川とはそれまで。その後品川から銀座に来たトラブルケースが更にトラブったのは言うまでもありませんでした。院長は今でもむかつく奴です。

更にいくつか電話してみました。日美系の川崎は、名乗ったらわざわざ来てくれた。JSASの重鎮である父に顔を繋ぎたかったようです。関西系ですが、名古屋と東京にも支店を作っていたとの事。午前中大阪で診療して、新幹線で移動して午後から名古屋。一晩泊まって翌日は午前は東京、夕方から関西と飛び回っていたそう。毎日の食事がほとんど駅弁なので塩分取り過ぎで高血圧になったとぼやいていました。私も父もさすがに可哀相に感じました。まずは一回東京院に見に行きました。銀座美容外科から歩いて20分くらいです。これは便利です。場合によっては呼ばれたら来てあげますよとか言いながら見ると、これがすごく雑な診療をしている。そりゃあそうです、時間との闘いですから。「はっきり言ってやばくないすか?」と訊いてみました。真面目に困っている風なら考えてみようと思っていたのに院長は「まあこんなもんです。」っと言いながら、「新幹線の時間なのでまた。」とか言って出て行ったのです。こちらは唖然!。もちろん手伝いませんでした。その後、日美の事件が発覚した際、父と二人で「ああやっぱりそこで育った先生は似た者なのだね。」と二人で顔を見合わせたものです。

いくつか電話して辿り着いたのはコムロでした。電話するなり院長が「先生待ってました。」って予告していないのに歓迎され、「うちは形成の先生を欲しいのですよ。」と優しい物腰。私も「小室先生は外科出身ですよね。でも昭和藤が丘でしょ?、形成とも接点あるんですか?」と訊いてみたら、「そうです。形成外科の角谷部長とは一緒に手術しましたし、いろいろ教えてもらいました。」との事。ああだからか!。形成外科出身の医師を求めているようです。待遇はそんなに良くは無い話ですが、まず一回訪問してみる事にしました。結論から言うとその後3年間以上もバイトに行きます。その話と北里研究所病院での話題を次回に繋ぎます。