2016 . 7 . 19

美容医療の神髄51-歴史秘話第51話- ”口頭伝承”:父は美容整形屋、私は美容形成外科医、二人の行動が歴史を語る。”その27”

今回までに50回を超えた歴史秘話。私の知りうる限り、覚えている限りの追憶をしてきました。私は生まれながらの美容外科医を自負しています。父の美容整形外科医としての人生は私の人生とほぼ同年ですから。もちろんまさか赤ん坊の時の記憶はありませんが、物心ついてからは、父との親子の交流の際に触れました。一例を言えば、私が初等科の頃に、父がたまにEPレコードを持ってきました。その前に東京の千駄ヶ谷引っ越したのですが、直ちにステレオを買いました。当時にしては高級品でした。祖母は(父の母親で同居していました。)声楽家で音楽教師でしたから、彼女が欲しがったのだと思っていました。実際カラヤンのベートベンの交響楽#1~#9をまず買いました。でも直後に父が歌謡曲のEP版(いわゆるドーナッツ版懐かしい)を次々に持参して来ました。父はそんな趣味はありませんでした。3年に10枚ほど持参してきて、トータル30枚ほどコレクションされ、つい最近まで私の手元にありました。後年気が付いたのですが、それらの当時の売れっ子歌手の眼瞼はみな父の作品と考えられます。他の作品と同じような形態で、しかも、父の作品は年単位で医原性眼瞼下垂になる症例が多発します。今になって私が何人も治しています。現在、父が手術したお年を召された芸能人、医原性眼瞼下垂症を呈している人は片手で数えられるほどいます。それが証拠です。

このように、父との思い出の中に、美容外科の歴史が詰まっています。私は訳あって高校生のころから銀座美容外科医院に出入りしていましたから、そのたびに父から芸術論や美学を仕込まれていました。大学に入るときには、私は将来美容外科医を継ぐように約しましたが、学生時代は一般的な医学知識をお互いに教え合う合間に美容の知識も交わしたものです。もちろん医師なってからは、形成外科の知識を私が一方的に教え、美容整形の知識を父が私に注ぐのですが、その際父は歴史的話題も挿入しました。面白かったので覚えています。その一部が、今このブログに載せている内容です。

そこで今回、表題を微妙に変えてみました。この時代は父が存命ですから、二人の言動が美容外科の歴史の一端を表します。この頃特に、形成外科医としての私と美容外科医としての私と、元美容整形屋で美容外科医に変身していく父の軋轢が生じ、二人の美容外科の世界におけるスタンスの変動が激しくなります。自分の話から、父との話題が増えていく時代です。

年代順に戻り、私の9〜10年次。平成8年、1996年までの話しは、残りのカナクリとのハードな折衝まで紹介しました。尚ここもS前教授が引き攣れていきました。

その後は11年次、平成9年に茅ヶ崎徳洲会総合病院形成外科・美容外科部長を務め、翌年平成12年に、遂に銀座美容外科に常勤として一年だけ務める事になります。斯界では日本美容外科学会JSAPSと日本美容医療協会での立場に、日本美容外科学会JSASと日本美容外科医師会への参画が起こります。

とにかく、9~10年次に私が在籍した北里研究所病院から、次は茅ヶ崎徳洲会総合病院に異動というか出戻るのですが、ここで父が体調不良を起こしたので、急きょ私が銀座美容外科副院長を務めることになります。次回はそこから。