3年次に整形外科研修の為に出向した産業医大とは、その名の通り産業医を養成し、産業医学研究を目的とする大学で、厚労省の助成で設立された私立大学です。産業医学は予防が第一義ですが、産業による疾病にも専門家が必要なので、整形外科は産業外傷に対する第一線ですから、工鉱業の街である当所には欠かせない訳です。ビックリしたの脊随損傷センターという病院があることです。炭坑の事故等で多発したから被災者を一生面倒を見る病院だそうです。北部九州は特殊な地域なのでした。他にも工場での災害での外傷を専門的に診療していました。そう言えば、北里大学は相模原市にありますが、周囲は工場地帯で、産業外傷患者が月に一人くらいは来院していました。そう言う意味でも産業大学整形外科研修は為になりました。言って見ればまだ景気のいい時代で、工業がまだ隆盛だったからです。勉強になりました。そうはいっても日本を支える彼等に対する医療はまだ必要です。
他にもいい勉強をしました。整形外科の治療対象は四肢が大部分です。背骨は同じ物が縦に並んでいます。だから、治療対象部の把握は重要です。私は研修医ですから、把握までが仕事ですが、術者である上級医には責任があります。ある時指の手術で、中指の腱縫合の筈が環指に切開を入れた先生がいました。助手をしていた私は何か変だなと思いながら、腱を見ると正常でした。すぐに気付いて環指をちゃんと治して、中指は切開だけなので謝って許されました。またあるときは、腰椎椎間板ヘルニアの手術の上下を間違って認識した上級医は、X線写真を見直して数え直して、何事も無かったかの様に切開をちょっと広げて治しました。どちらも医学的に損傷は来さなかったのですが、無駄な時間を費やしたし、お互いの精神的ショックはあります。もっとすごかったのは、骨移植の骨片を床に落とした大先生がいました。真っ青になりましたが、慌てて消毒液に浸漬して、何事も無かったかの様に手術を継続したのです。消毒液は細胞の蛋白を凝固させるので、生着率が落ちる可能性が高いのですが、大先生は「スペーサーだから、あればいいのです。」と言い張りました。後でX線写真で見たら、ちゃんと存在していたのでホッとしました。
誰が責任を持つのか?、どうすればいいのか?。数年後主治医という責任者になる際に気付きました。要するにみんなで確認すればいいし、多くの目で、頭脳で見て、言葉を交わして確認すればいいことで、実は簡単なことなのです。まるで電車の車掌さんの様に声に出せばいいんです。そう言う意味では、3年次にはいい勉強をしました。その後は病名、部位、切開などを、通じる相手と言葉で交わす様に励行する様になりました。また、術前にも、出来る限りカンファレンスし、プレゼンして、そうして自分の頭にも刻む様になりました。整形外科と形成外科、美容外科も似ていて、術前からの計画、デザイン、術式の確認が結果を左右するのです。その面ではやはり整形外科研修は為になりました。今でも術前には、看護婦や患者さんと確認してから手術に臨みます。複雑な難しい手術の前の晩には、寝る前に脳内でシミュレーション手術をします。たいていはそのまま寝てしまい夢の中で手術しているんですけれどね。
もう一言、医療ではないのですが、北九州市は面白いところでした。ご存知の様に5市が合併して人口100万人で政令指定都市になった名前からして人工的な市です。元々は5市だったのを、現在は7区に分けています。ですから地域性がバラバラです。八幡、戸倉地区はもちろん製鉄の街ですが、今や縮小して一部はスペースワールドになりました。丁度私達の出向中はまだ建設中で、結局行かれなくて残念でした。門司区が関門海峡の九州側で江戸時代から交通の要衝だったですが、観光地化しています。橋に行ってみました。確かに勇壮な景観でした。小倉は古い街ですが、何と言っても食べ物がおいしい。ふぐはこの辺りではどこもおいしい。3回程いただきました。東京では簡単にはいただけないものです。そんな私が十数年後には大分で嫌という程味わうことになるとは想いもしませんでした。もう一つすごいなあと思ったことは、経済性的格差のるつぼだと見られたことです。街を歩く人の中に治療が効を奏していない先天性肢体障害者が居て、また体表の先天性疾患で未治療の人が見られたのです。首都圏では未治療の人はあまり見られないので、現在も憂慮される医療過疎の現実を見た気がしました。
4年次は、熊本の西日本病院という施設で一般病院での形成外科研修を受けることになりました。
長くなったので一度改頁します。