2015 . 11 . 20

美容医療の神髄30-歴史的経緯第30話- ”口頭伝承から、自分史話へ”その7

4年次は、熊本の西日本病院という施設で一般病院での形成外科研修を受けることになりました。長くなったので改頁しました。

戦後から昭和50年頃までは、九州には医学部が無い県が有りました。ですからいまでも九州全域で見て半数以上の医師が九大出身です。医療過疎の裏返しで、医師が余っているのか、九州では医療機関の病床数が人口比では上位の県が多く、熊本県も然りです。何が言いたいのかと言いますと、九州の医療は質より量だということです。経済的格差が大きい、だから高齢者の長期入院が多い。だからベッド数は余り有るのに、病院はやっていける。何しろ土地が広くて地価が安いから、でっかい病院をどこにでも作れる。これが量的医療です。質はというと、医師はやはり多くないので、高度機能でないのが当たり前なのでそれでもやっていける。これが質の問題です。

そんなところで、形成外科という先進的概念の医療をやっていけるのか疑問でした。だって、当時九州各八県すべてにやっと医学部が揃ったばかりしたが、形成外科をちゃんと開設している大学病院は九州にある11大学のうち3大学だけでした。例えば3年次に整形外科研修の為に出向した産業医大では形成外科を取り合いしていていつまでも開設できなかったし、佐賀医大なんかは、東京の大学から出向して開設しようとしていた最中でした。多くの県では、県で最大の市中病院に形成外科が開設されていて、やはり首都圏の大学で育ったベテラン医が仕切っている所が多かったのです。時流に乗って、北里大学形成外科医局からも、九州くんだりに出向したのです。熊本県には東京の昭和医大からの出向病院と、熊本市民病院くらいしか形成外科が稼働していませんでしたから、西日本病院はマーケットをつかめると目論だのでしょう。産業医大の整形外科からの出向者が整形外科を開設していた縁もあったようです。

しかし、そうは問屋が卸さない。経済的レベルの高くない地方では、形成外科のニーズが無い訳ではないのに、患者はわざわざ手術等を受けないし、経済的レベルは知的レベルにも直結するので、県民は美容整形と美容外科と形成外科の区別も付かないのでした。たぶん病院の上層部も、形成外科開設に当たって混同していたと思います。

通常、市中病院での形成外科医療は、ほくろ取りがメインで、体表の美容的要請の伴う外傷の治療と修正がたまに飛び込むのですが、そこでは絶対数が少なかったです。そこで、形成外科のカテゴリー分けを以前に紹介しましたが、再掲してみます。学会の市民向けの説明ですが、これに従って症例を思い出してみましょう。

形成外科は傷や変形をきれいに治すことを主な目的とし、顔や手足など身体表面の傷病を対称とします。ケガ;怪我はどこでも起きますが、交通外傷は多発外傷なので高次機能病院でないと受けませんから、数少なかったです。顔面骨折;同様に多発外傷や、頭部外傷を伴う顔面骨折は1年間でゼロでした。けんかやスポーツでの対人外傷も無かったです。やけど;1例50%超の重症熱傷が来院されました。近くにある自衛隊員で、ガスボンベ爆発でした。頑張って助けようかと思いましたが、前進管理の出来る設備が無いため断念し、洗浄等の応急処置の後に徳洲会に搬送しました。あざ、腫瘍;ほくろは年の数は有るし、小さくならない。無くならない。取りたい人は沢山居て、こればかりしっきりなしに手術していました。とは言っても週に2〜3例でした。先天異常;通常先天異常は産後すぐ見つかり、産科から紹介されます。地方の市中の産科医は、地域の基幹病院に紹介しますから、形成外科にかかるとは限らないし、地方の病院の医師は形成外科のレパートリー等理解していないので、1年間で1例も来院しませんでした。皮膚潰瘍;褥瘡=床ずれは高齢者に頻発します。しかし手術適応でも経済的に望まないし、病院のケアーの体制作りも進んでいませんから、保存的治療に終始しました。週に1回程度の回診で薬や創傷保護剤を指示するだけでした。がんの切除・再建;高齢化と共に、悪性腫瘍は増加するのですが、体表や顔面の悪性腫瘍は稀少で、医療的知的レベルの高くない地方では、他科に行ってしまうか、生命機能を重視して形態再建を諦めるか?でした。ただし、良性のほくろだと思って切除生検、病理検査結果でで悪性所見が3例程でました。そこは私達の腕の見せ所、直ちに拡大手術して、再建して、変形を最小限にして、根治して悦ばれました。乳房再建および美容医療;田舎ではもちろんそんな高度な医療を知る由も有りません。乳房再建は年間0例でした。美容外科は市中にチェーン店が進出し始めたので一般病院には来ません。高齢者に対する老人性眼瞼下垂症の治療もまだ、流行っていません。

ということは熊本の1年間で何していたの?。っていうことになりますが、4年次の私には大変有効な時間を持てました。勉強できました。それまでの3年間で、多くの成書を買い求めていました。手術書はもちろん、形成外科の体系的全書や解剖学図譜等約10冊の分厚い本を持ち込んでいました。こういった本を、それまでは、新たに診る疾患や、手術に当たってその部分だけ読むことが多かったのですが、この際本を1頁目から最終頁まで、端から端まで読み下そうと考えました。暇さえ有れば(週3日の手術日と外来診療日以外は暇)、本を読んでいました。通常成書は、上記のカテゴリー通りの章に従っていますから、切りが付きます。ある章の診断の本を読んだら、次は手術書、さらに手を伸ばして解剖書をも並べてデスクの上に並べて見比べて読み下していきますと、一遍に医療水準が得られました。もちろん最新の知識は成書には載っていないので、それは翌年以降になります。何しろ、図書館も無い病院だし、大学病院も近くに無いので、最新の医学知識は得ようが有りません。逆にそれだから、それまでに体系的に認められた知識を詰め込む機会があったということです。そう言う意味では、形成外科医の基礎作りの為の有用な1年間だったといえます。九州のどさ回りの後は、通例では5年〜6年次は大学復帰で形成外科をみっちり研修する年次であろうと思われたし、その際は、最新の知識を必要とするし、調達できるので、その基礎段階としてはとっても有用な1年間でした。ちなみに今でもその成書のうち一部は使っています。

そんな熊本の1年間では個人的には、長男が前年に産まれたので、家族3人水入らずという感じで、休日は長男と遊びまくりました。ゴルフもたまにしたのですが、何しろ車で30分以内の所ですから、帰ってからまた遊びました。ところで各地で食生活も楽しめます。熊本といえばなんと言っても馬刺し!。実は部位が沢山あり、スーパーマーケットで何種類も並んでいるのには驚きました。毎週の様に買い求め、冷凍も出来るので、我が家の庫内にも並んでいました。栄養価(蛋白質)が高く、運動する動物なので、脂肪が過小で健康的なのにおいしい。東京にも有りますが多彩ではないので、この1年間の熊本で堪能しました。

4年次は1990年=平成2年ですが、美容外科の世界にもいろいろな変化が見られてきました。形成外科と美容外科。非形成外科医の美容整形上がりの美容外科医だけでなく、非形成外科医で美容外科を始める輩が出始めます。例えば小児科出身のKクリ、当時飛ぶ鳥を落とす勢いで伸ばしていました。熊本にも支院が出来ました。全国展開を地でいき、遂にテレビCMも多発し始めました。翌年5年次に北里大学形成外科に戻る頃には、医局でも、学会でも話題沸騰となります。そして形成外科医出身の美容外科医達は、対抗手段を講じようと考えます。日本美容医療協会への動きです。前に述べましたが、非形成外科グループの中にもチェーン店と開業医が存在し、微妙な対立構図が生じてきました。形成外科医出身の美容外科医はまだ少なく、特に昭和53年の美容外科標榜からは形成外科医に取っては美容外科進出機会を失われた20年となります。形成外科標榜時に学会長が「美容はしない。」と言ってしまったからです。既に形成外科から美容外科開業医になった医師は全国に20人くらい居たのですが、彼等を含んで形成外科医で美容外科を将来開業したい医師が集まり始めます。その場は学会と臨形会。それを元に協会を設立することになるのです。

次回その辺りに話を戻していきます。