6年次はシニアーレジデント4年目でチーフレジデント学年です。現在の臨床研修制度下では後期研修医または専修医3年次と称され、いずれにしても専門医試験に向けての知識集成と症例収集の学年です。北里大学形成外科医局では、チーフレジデントは2人しか枠が無いため、同期4人のうち二人は、関連病院の中でも症例が豊富な2つの病院に出向して、チーフレジデント業をすることになります。こういう時私は、一般病院での臨床研修がふさわしいとされます。開業医の子で、将来開業すると思われているからです。そう言えば、その後も進路の選択の際にそう云われました。そう言う訳で、6年次は横浜南共済病院形成外科勤務でチーフレジデント学年を過ごすことになりました。
そこでは、6年次の私がチーフレジデントクラスで、他に3年上の講師級の部長と、4年下の新人医師の3人体制で診療します。大体どの年次がどの手術を宛がわられるかは慣例で決まっています。敢えて言えば、学会認定専門医の受験時に症例提出が必要なのですが、先輩医が通った時に出した症例が求められるレベルですから、部長はどの症例をチーフクラスに手術させるかを常に意識しているのです。例えればAからCまでのランクがあるとすれば、ウルトラCは不要で、Cランクはしてもいいが、なくてもいい。Bランクを10症例集めてちゃんと写真も保存して、経過を半年追えば合格ラインに達すると考えられます。
症例のことばかり書いていますが、診療内容のご紹介になると思いました。1年間のチーフレジデント期間で形成外科の基本的診療、特に手術術式を一通り経験することで、その後の形成外科医としての基礎を身に付けらるからです。今考えてみれば浅はかでした。何故なら、学力は座学に基づくからです。症例ごとの手術法の勉強だけではなく、体系的に網羅された知識が無ければ、診療の場面では即座に対応できないからです。診療場面では、患者の状態は皆違うので、類型的に対処できるとしても、その為の知識はその時代の水準においてすべてを利用しなければ対処出来ません。学会認定専門医も、症例経験の提示と質問が一方の堰であり、筆記試験がもう一方の堰です。症例集めはこの一年で概ね足りましたが、忙しくて座学の時間が取れませんでした。翌年一人医長として、茅ヶ崎徳洲かい総合病院形成外科を任されるのですが、まだ、新しい出向関連病院ですから、診療が忙しくない為に、勉強の時間が取れたのは幸いでした。実際問題集と成書と解剖学書を首っ引きで毎日1時間以上の勉強をして、やっとこなせたというところでした。それでも筆記試験は合格点ぎりぎりの70点だったのです。それほどの多岐にわたる知識を身に付けなければ、一人前の形成外科専門医とはいえないということです。
でも、6年次の症例経験があってこそ形成外科医として独り立ち出来たのです。特に1人で出向したら、相談する先輩医もいないので、新たな症例に当たっては、自分で勉強しなければなりません。その際には、それまでの経験からの類推が必要とされるし、論文を探し出して新しい手術法を実践するにも、それまでの経験との比較対象が必要な訳です。やはり症例経験は積み重ねです。その意味で6年次には、Aランク30点がBランク60点まで経験値が上がったというところでしょうか?。ところで当時は症例経験の提示にはスライド写真を使いました。今はデジタル写真です。そのデータはスライドファイルにして持っていて、コピーを提出したので、手元に残っています。そういえば自宅の倉庫にしまってあるのを思い出しました。そこで、近々引っ張りだして見直してみたいと思いました。そうしたら、内容をご紹介したいと思います。その回は番外編とします。形成外科専門医とはいかにすごいことをしているのかをお見せ出来たら、偏見がなくなると期待されます。未だに形成外科医は何をしているのかご理解いただけない市民の為に啓蒙となれれば幸いです。
ところで、この年1992年は美容外科の世界での動きが有りました。JSAPSとJSASの対峙が一色即発になります。昭和51年の形成外科標榜から16年。昭和53年の美容外科標榜から14年で、形成外科出身の美容外科医が100名を越えて来て発言力が増したのに対し、非形成外科=昔の美容整形時代からの医師(父を含む)は減って来ても、他科からの転向医や新人からの参入医がチェーン店化の為に倍増していたのです。
JSAPS系の形成外科出身の美容外科医は、臨床形成外科医会という業種団体を構成しています。父はメンバーでしたし、私も後継者として参加したことをこれまでに述べました。臨形が旗を振ってJSAPSを動かし、さらに大学の形成外科を取り込み、さらに厚生省を動かして、形成外科に基づいた美容外科の正常化と市民広報を目的とした公益法人を設立しようと画策されました。日本美容医療協会の発足に向けて蠢動が見られます。父はもちろん一枚噛んでいましたが、非形成外科なので発言力は低く、ある意味では出し抜かれた結果にほぞを噛むことになります。私は形成外科医でもあるため悠々と協会に絡んでいきます。ここらあたりから、私は形成外科出身の美容外科医としての顔を拡げていきますし、父はどちらにも絡むコウモリと呼ばれることになるのでした。ややこしいことになったもんでした。その辺は次回から、嫌でも話はそちらに進みます。