2016 . 3 . 18

美容医療の神髄42-歴史的経緯第42話- ”口頭伝承”:父は美容整形屋、私は形成外科医。自分史話へ”その19”

茅ヶ崎徳洲会総合病院での形成外科診療を紹介する事で皆さんに形成外科医療の真髄をお示ししようと思いました。形成外科とは何かを、一般人が知らないのが残念です。これは美容整形屋どもの妨害工作ではないか?、それとも、形成外科領域の医師の啓蒙不足が資金不足から来るものか判りませんが、一番判っていないのが他科の医師達と、マスコミです。未だに美容整形とほざき、美容外科と形成外科の区別もつかない奴らに教育の意味も込めて紹介します。

底で症例のカテゴリー分けをしてみようと思ったのですが、長くなりそうなので、今回要述します。例によって、日本形成外科学会の当時の認定医のカテゴリーに沿います。

1、新鮮外傷、新鮮熱傷;結構ありましたが、全身管理を要する様な重篤な症例は年に数例でした。ただし重症患者は救急センターで受けますから、仲良くしてもらった救急部長にICU の管理は任せて、その下のレジデントが初期管理をします。でも私達も当初から状態を把握していきます。そして、頃合いを見て手術を担当します。残念ながら設備と人員が不備なため、対表面積50%を越える様な重症熱傷は救命が難しかったです。狭くてもひどい深いやけど、多くは低温熱傷や外傷ですが、保存的に治療しても治りそうもないやけどが多く来院しました。近くに皮膚科や形成外科がない為でしょう。積極的に植皮で治して患者さんに安心してもらいました。

2、顔面骨骨折および顔面軟部組織損傷;当地は交通量の多い国道1号線が近く、また名立たる茅ヶ崎海岸は若者のドライブルートですから、交通事故による顔面外傷が頻発していました。顔面骨骨折は、機能的障害の有無に関わらず形態的異常を来す事が多く、形成外科が治療するべき傷病ですが、当地には我々しかしない為全症例が運ばれてきました。けんかや店頭によるものも多かったです。機能障害を呈する眼窩底骨折や下顎骨骨折の患者も来ました。そこは徳洲会ですから、迅速に対応し出来るだけ早く全麻での手術をさせてもらえました。週に1例程度はこなしました。数えたら北里大学形成外科や救急センター並みでした。実際年に一回の総医局会で北里大学形成外科医局に症例数を報告して、比較します。他に面白かった症例として、自動車のハンドルによって上口唇中央だけを削られた症例を、当時発表されたばかりの最新の技術である下口唇からの有茎皮弁で再建しました。本来は口唇裂の修正術を応用した本邦唯一の症例でしょう。発表しようと思ったのですが、タイミングを逃したのが残念でした。

3、唇裂・口蓋裂;徳洲会にトータルで5年間在籍した間には産まれませんでした。いや1例は産まれたのですが、神奈川県のメッカである子供医療センターへの転医を希望されたので手配させてもらいました。

4、手、足の先天異常、外傷;茅ヶ崎は工業地帯ではないため大きな工場は少ないので、手足の外傷は少ないのですが、手足の先天異常はたまたま2例産まれました。単純な合し症1例は当時発表されたばかりの足底からの厚い分層植皮で被覆し、綺麗に治せました。もう一例は両側の第4、5合指症で、眼瞼狭小症も伴う症候群でした。ここで登場するのが、整形外科に所属していたK医師でした。私が4年次に九州で研修していた際に、形成外科の九州地方会で声をかけて来た。東京駅で開業している老舗のEクリニックの親戚で、大分の実家は整形外科で、久留米大学整形外科に所属しているのに、形成外科美容外科をしたくて仕様がない変な奴。何故か徳洲会の整形外科に移っていたので仲良くしていました。今彼は老舗のYクリニックを承継して美容外科をしています。両側合指症の手術の際に、これ幸いと手術を手伝ってくれました。両側同時施行と言っても私が一瞬先にして同じ様にK医師にさせたら、両側とも綺麗に治せました。合併する先天性眼瞼狭小症については次の項目で。

5、その他の先天異常;先天性眼瞼狭小症とは、内眼角の蒙古襞どころでない被さりで黒目が一部隠れる程なので、視力成長を阻害するため幼少期に手術する必要がある病態で、眼瞼下垂症も伴う為乳児期に同時手術を要するのです。かなり稀少で大学でも経験が少ないとの事。いっぱい論文を調べてやっと手術法を見出して結果を得たのです。後日談があって、11年後に銀座美容外科医院に務めていた時に、私を探して長期経過を診せに来てくれました。本人とは初めて会話するのですが大変感謝され、私は涙が出るほど感激しました。

6、母斑、血管腫、良性腫瘍;ほくろを取るのに手術を要する5㎜以上のものは、形成外科が無い地域では患者さんも諦めています。各科の医師に教育して次々に紹介してもらったら、月ごとに症例が増えました。耳下線腫瘍は耳鼻科がないためみんな回って記した。外科医の勉強したがるので一緒に手術して教育しました。そのうち老人の怪しいものも紹介が増えて、結果的に悪性疾患が見つかり始めます。茅ヶ崎市は実は、高齢化しているのです。戦前は別荘地で、戦後から高級住宅地なので、東京に比べて高齢化が進んでいるため、悪性腫瘍が多くできるのでした。

7、悪性腫瘍およびそれに関連する再建;という訳で、悪性腫瘍が放置されていたのを見つけては切除し、大抵拡大切除となる為再建を要しました。進行が早い黒色種は放置すれば亡くなるか、患者さんも判るので急いで大病院で治療するから、CTMC; Chigasaki Tokusyuukai Medical centerには来院しません。壊死する様な有刺細胞癌は腐るのですぐ大学に行きます。ほくろに似ていてゆっくり増殖する基底細胞癌と、放置すればいずれは必ず癌化する何種類かの前癌状態を数多く見つけました。学会認定医の際に説明した症例の他に、よく覚えている症例がいくつかあります。悪性耳下腺腫瘍は全摘して、顔面神経切断し、神経移植して再建しました。神経回復に2年はかかりましたから、後年後任医に回復したのをを教えてもらった時はホッとしました。ただの老人の拡大する両頬のほくろもどきを取ったら前癌病変だった際は、慌てて拡大切除しました。両側頬部に皮弁形成したら、バカボンの頬みたいになって患者さんに笑われましたが、命は助けました。もう一人、病院のベテランの薬剤師で40年前ヒ素を使って梅毒の特効薬を調合していた人が、やっぱり皮膚がんを全身に多発させたのでした。いたちごっこみたいに次々に取っては再建して2年間で5回は手術しました。私が交代してから亡くなったそうです。

8、瘢痕、瘢痕拘縮、肥厚性瘢痕、ケロイド;普通の創跡形成は形成外科医が居なければ誰もしたくない筈です。赴任後に年に4例程は訪れました。得意のZ−形成やW−形成をして綺麗に治しました。今に繫がっています(このブログの目頭切開のキーワードで見て下さい。)。

9、褥瘡、難治性潰瘍;まだ褥瘡(=床ずれ)の予防と治療が進んでいない時代。皮膚科医は面倒がっててを出さない。私達形成外科医は保存的治療の医療材料開発にも携わりましたし、有名会社の治験のデータを出しました。今ではこれらが褥瘡治療の定番です。高齢化社会に取って有用性が高いと思います。しかし当時は、褥瘡が頻発しました。茅ヶ崎市は在宅医療も盛んで、往診にも同行しました。深い大きい褥瘡は、保存的治療ではきりがないので、手術をすすめます。筋皮弁や、穿通枝皮弁での再建となりますが、体位の保持と変換のNs.サイドへの教育から始めました。病院としても半年後にはかなり手術を積極的に推進し始め、月に1〜2例は次々に治していきました。変わったところで、電撃症による潰瘍は面食らいました。茅ヶ崎海岸は海水浴のメッカですが、雷が鳴っているのに遊んでいた中学生が打たれました。外科医によると年に何例かあるそうです。もちろん心臓が止まりますから、運ばれたら蘇生からです。若いので助かります。大抵飛ばされるので外傷も伴います。見に行ったら頭から足に電気が抜けた跡がありました。電撃熱傷です。一部が深いので、皮膚潰瘍に成りました。仕様がないから、形成外科で皮弁形成述をさせてもらいまいた。それはうまくいったのですが、頭も打っていて高次機能障害が残ったのが残念でした。

10、美容外科;11、その他;美容外科といってもまだ、自費治療の手配が済んでいませんから、純粋な美容外科診療ではないかも知れません。そこで眼瞼下垂症の治療を保険診療範囲内で開始していきました。その他の分野にはいるかも知れません。とにかく、眼瞼下垂症の診療はこの後も私のライフワークとなります。この7年次から徐々に手を付け始めます。まだ、この時点では形成外科の機能的治療がメインで美容外科的な形態治療としての埋没法はしていません。眼瞼下垂症として、切開手術のみからです。思い出せば、それまでに眼瞼の切開術をさせてもらえたのは5年次に大学でした。眼瞼の母斑をまるで下垂手術の様に切除する機会を与えてくれたのは、当時の内沼教授でした。前立ちをして頂き、「お前はこれから眼瞼を一生切る事になるんだな。今日がその最初だな。よく覚えておきなさい。」と優しく?言葉をかけてくれました。その後、少しずつ覚えていき、銀座でも見学し、手を出し、7年次には眼瞼下垂症の勉強に邁進しました。実際には、美容外科医療に手を染め始める9年次から、両方の使い分けを出来る様になってから、眼瞼手術のレパートリーがひろがると共に、どっぷり浸かっていく事になるのです。その前に8年次にには、地域医療に啓蒙するチャンスをを月一回与えられましたから、先ず患者さんの掘り起こしから始めました。これは何かと言うと、各科が持ち回りで地域の市民センターみたいなところで講演をするのです。もうお判りだと思いますが、徳洲会の選挙対策でもあるのです。市民に講演すれば票に繫がるからです。それはそれとして、眼瞼下垂症の診療の講義をすると、患者さんが徐々に集まり始めました。8年次には月に2例程度の手術をしました。皮膚性の眼瞼下垂が主で、そのうちの1/3では挙筋短縮もしました。症例を増やすとともに、画像も増え説得力も高まり、相乗効果で症例が増加していきました。さてその年次で、異動になりますから後は後任に託しますが積極的に診療しな医師でしたから、その後はしぼんだようです。

症例の説明はここまでとして、銀座美容外科での美容外科診療の記憶をたどってみます。同時に日本美容医療協会の動きに付いても触れます。その後はいよいよ、9年目以降に美容外科の同情破りの修行時代に入り、同時進行として、JSAS側への参画と日本美容外科医師会の設立の件に進みます。

目次みたいになりましたが、次回に続きます。