2016 . 7 . 9

美容医療の神髄49-歴史的経緯第49話- ”口頭伝承”:父は美容整形屋、私は形成外科・美容外科医。自分史話へ”その25”

前回はコムロでのバイトの話で終始してしまいました。9~10年目の北里研究所病院に出向している間には他にも話題が尽きません。今回はその続きから。

9、10年目は北里研究所病院に出向していました。コムロでのバイトの他にも多くのクリニックの門を叩きましたが、長続きしたところはありませんでした。面白く無かったからでもありますが、ギャラ面でも満足でなかったからです。コムロは他と比べてペイが2/3程度でも診療が面白かったし、多くのいい医者に出会えた。でもこの年東京に住居を定めたのでローンが掛かり、収入が不足するから、もう一つのバイトにも行く事にしたのです。

それは実は北里研究所病院の方針です。本来医師は、病院に勤めたら専従するべきでしょう。前年まで奉職した徳洲会では、プロパーの医師=研修医として入職して積み上げた医師は、表向きアルバイトが出来ません。そりゃそうです。徳洲会は忙しいですし、グループで育てた医師ですからバイトなんかしたら背任に等しいのです。私達外から出向した医師はお目こぼしされていた訳です。さて今や、2004年から臨床研修制度が制定され、研修医は夜も実質的に拘束されるから、バイトは禁です。実は研修制度というのは、厚労省から病院に、研修医一人頭いくらで補助金が出ているので、バイトしたら国庫に対して詐欺になるのです。まあ今はそうとして、当時の大学病院では、研修医時代から、半ば公然と夜のアルバイトに行っていました。まずは一般病院の当直医をみんなで廻すのです。そのうち7年目からは研究日を貰って一般病院に、一般的な(=大学病院の様な専門的でない)臨床の勉強と称して診療バイトにいくのです。手術の手伝いなんかもします。北里大学病院では、研修医時代からそれなりに貰うので(平均的サラリーマン並み)その程度のバイトだけしていましたし、私は父の銀座美容外科での美容外科バイトが主でした。むしろそれは医局の策でもあります。

ところが古い大学病院は酷いところなのです。旧帝大である国立が安いのはもちろん、戦前から戦後すぐに開設された医学部の病院では、2年目まで無給なところや、ひどいところは6年目まで無給なところもあります。慶応大学病院はその一つですが、北里研究所病院は慶応の付属病院みたいなところですから、(共に北里柴三郎先生が開設した。)やはり薄給です。私が9年目で行った時に、給料がそれまでの半額になりました。思い返してみれば、2年目に日比谷病院外科で研修していた際に、慶応の外科から4年目の医者が手術の手伝いに来ていました。聴いたら、無給助手として大学で働いているそうで、バイトを週に2日して食い繫いでいるそうでした。それに比べれば慶応からの出向先としては、北里研究所病院はまだましな方だった訳です。

そして私達が北里大学形成外科医局から北里研究所病院への始めての出向だったのですが、驚いたのは、いきなり病院の医局長である外科部長に云われたことです。第一言が、「見ての通りの待遇だから、とにかくアルバイトをすぐにでも探して下さい。」です。宇津木先生と顔を見合わせました。そんな事言う病院始めてだったからです。もっとも、宇津木先生は医局に在籍しながら、開業していた事もある裏稼業に精通していた医師ですから、バイト先はとっくに用意していました。そこで更にその部長は「知っての通りこの病院は従来慶応からの出向病院で、ああそうか君のお父さんもそうだったね。北里大学からの出向は泌尿器と放射線科だけだが、彼等もバイトどころかサテライトクリニックを持っているから教えてもらいなさい。」だって!。ヒエーでした。そういえば父から聴いた事があります。銀座美容外科の前身は銀座東一診療所で、北里研究所病院皮膚科部長が在籍中に開設したのですが、彼が院長になったので、さすがに二つの病院の院長はまずいので、昭和36年に父が継いであげたという経緯でした。すぐに父に外科部長の話をしたら、父は「まだそんな事やっているのか?。俺も人の事言え無いけどな。でも今時そんな病院あるんだ。」って人ごとみたいな言い草。更に「俺の頃もバイト三昧だったけど、俺は叔父貴の病院に居たからな。だからお前もここで仕事すればいいよ。」って自嘲するどころか、自分の土俵で話し始めます。その話はまずいと思い、私は直ぐに「でも、この銀座美容外科に医師二人分の患者は来ないよ。そしたら私は食えないじゃない。」と言い返しました。そしたら父は「色々な経験も将来の為になるんじゃないか?、開業の勉強にもなるしな!。」とか変に納得していました。

場面を戻して、バイト探しですが、すぐに泌尿器科の先生から声が掛かりました。当時の泌尿器科部長はもう引退直前ですが、サテライトクリニックを持ち夜の診療だけしていました。因みに彼とは後々家がお隣さんになるのですが、もうその頃は医局を定年退職して、直ちに自宅近くに開業していました。今も近くです。そこは関係ない科目だけど、形成外科・美容外科部長の宇津木先生の同級で泌尿器科医長のL先生が声を掛けてきました。彼は泌尿器科ですから、男の`おしも`のクリニックを開業していました。それも新幹線整形です!。名古屋にチェーン店系のフランチャイズを開業していました。そこを手伝って欲しいと言われ、条件も歩合があり結構良かったのですぐ受けました。月に2日ずつ土日を泊まりで診療しに行きました。対象が男ですから、そのうち腋臭症の手術も受ける様にしました。そうなるとこっちの土俵です。毎月土日に4例手術して何十万円の歩合を貰って来たのです。L先生も大喜び、私もやっと食えるバイトにありついたという事でした。その後父とも顔を見合わせて、「さすが在日人はやるなあ!」と言ったものでした。

父が嬉しそうだった話を繋ぎます。父は慶応大学医学部を卒業してすぐ、北里研究所病院に出向したのですが医学博士もそこで取得しました。研究所だからあたりまえです。今でもその際のスライドと論文原稿は、何故か私の手許にあります。

北里大学形成外科・美容外科医局から、私たちが出向して北里研究所病院形成外科・美容外科を開設した際にも、研究の話題が持ち上がりました。実は北研はS前教授が今やノーベル賞をもらった有名な大村先生と同僚だった関係があり、S先生が顧問医として出入りしていましたが、彼は定年後アッチコッチに顔をだしていて、エステのTBCの医療コンサルもしていました。出向して数ヶ月後に、突然私に振ってきました。「人の毛をヌードマウスに移植して伸ばしたら、それを脱毛の実験に使える。TBCも協力するから、森川先生やってください。巧くいけば博士論文書かせてあげます。」「ええー!ここは白金、大学(相模原)まで通うのですか?」と聴くと、S先生は「北里研究所病院には当たり前ですが、研究施設があります。もう話を着けました。」だって。私は「ああそうですね。父もここで取ったんです。親子で同じ施設なんていいですね。」と安請け合いしてしまいました。同夜銀座に走って、父に話したら大喜びしていました。

さて実際にはどうしたか?。研究所と病院は隣合わせでも、違う施設です。ところが病院の6階の屋上にペントハウスみたいな掘建て小屋があって、そこを間借りして研究所員が実験動物を飼っていました。つてを辿ってそこに出入りする様になり、ヌードマウスを飼い始めました。ヌードマウスとは、免疫の無いネズミで何を移植しても拒絶されません。そのかわり2月以内に無くなります。ですから、頃合いを見て買ってもらい、毛を植えれば伸ばせて、脱毛の実験に使えるという訳です。形成外科・美容外科でフェイスリフト等の手術後に、毛の生えた皮膚を貰える予定が立ったら買ってもらうのです。一例目は毛を刈った皮膚を短冊状にして、ヌードマウスの皮膚を観音開きにした中に置いて縫い戻してみました。同時に1本ずつ毛根をほじった鞘をヌードマウスの皮膚に差し込んでみました。その後毎日カメラを持って見に行きました。回診みたいです。本当に生着して、毛が伸びました。短冊から毛が伸びて、ヌードマウスの皮膚を貫いて毛がふさふさ生えました。毎日伸びましたが、約1㎝まで伸びた25日目で全頭亡くなりました。でも写真は沢山撮りました。1本ずつ植えた毛はすぐに抜けてしまい使えなかったので残念でした。2年間で5クールくらいは実験しましたが、長生きしないので、これでは脱毛の実験にはならないという事になりました。でも、相模原の大学に持っていったら面白がられ、後年の研究への道を拡げたので、それはそれで意義がありました。まだ何年か先の話しになります。

もう一つ北里研究所病院に、父が出入りする事になる件がありました。父の患者で手に負えない2症例を北里研究所病院に紹介したのです。一例は30年以上前に父が陰茎に注入療法した患者さんが時々皮膚に孔が空いていたそうで、遂に皮膚癌を生じた症例です。私はやけど跡の弱った皮膚が創を繰り返した結果皮膚癌になった症例を何例も治療しましたから、その症例を診てピンと来ました。幸い患者さんが父を再来したので、私に診させてすぐ治療に入れたのです。直ちに北里を受診し、私と泌尿器科医長のL先生とで合同手術に到りました。

もう一例はやはり父が30年程前に顔にシリコン注射をした患者ですが、大部分がぶつぶつになったので無謀にも父が撮ろうとした結果、顔面神経麻痺と耳下腺管創傷を来した症例です。父は銀座美容外科で治そうとしたのですが、いかんせん美容整形屋は形成外科の分野の知識がなく、お手上げとなりました。そして、北里研究所病院に紹介する事になりました。その際父は同行しました。実は行きたかったのです。宇津木先生に患者を依頼して、ついでに「森川一彦先生の教育を御願いします。」とも言い、その足で院長と婦長に会いに行きました。父が北里研究所に在籍したのは30何年前までですが、実は平成7年当時の院長や婦長はその頃から居たので、知り合いでした。ここでいやな話しを付け加えようと思います。銀座美容外科の事務長は父の賄い婦ですが、実は北里時代の患者でした。同行した彼女は自分が入院していた病棟を見に行き、「懐かしいわ!」とほざいたので、私は「帰れ!」と言いましたが、父が楽しそうなので目を瞑りました。北里研究所病院は平成11年に新棟を作ります。それまで30年間以上も旧い病院を使い続けていたのです。多くの勤務者もそうだったのです。

長くなりましたので、私の9、10年次。平成8年、1996年までの話しは、残りを次回カナクリとのハードな折衝まで紹介します。ここもS前教授が引き攣れていきます。その後は11年次、平成9年に茅ヶ崎徳洲会総合病院形成外科・美容外科部長を務め、翌年平成12年に、遂に銀座美容外科に常勤として一年だけ務める事になります。