平成9年、1997年は11年次ですが、茅ヶ崎徳洲会総合病院形成外科・美容外科部長として意気揚々と赴任しました。もっとも東京勤務の際に東京都大田区に居を構えたので急に引っ越す訳にもいかず、病院の持つ寮もあるのですが家族と離れるのは辛いのでほとんど使わず、片道1時間半の道のりを自家用車で通う事にしました。徳洲会に出戻りですが、私が離れていた2年間の部長があまりにも悪評を得ていたので、私は歓迎されました。院長は前回と変わらず、彼には気に入ってもらっていた。他の医師団も2年前とほとんど変わらないから気心が知れている。
この年の茅ヶ崎徳洲会総合病院では医療講演に盛んに参加した事がまず上げられます。月1回以上は、市中の市民センター等で専門分野の講演をします。他科との持ち回りです。もちろん私は形成外科分野の話をします。この年の出向から、私は形成外科・美容外科部長の肩書きを貰いましたから、美容外科の話題も組み入れました。ところで前回書き忘れましたが、北里研究所病院に出向してすぐに、パソコンを揃えました。マックの中級機種と周辺機器です。これが役立ちます。パソコンを使って症例や説明用のスライドを作製し、説明文書を印刷して配り、シナリオとします。ついでに言えば、私は部長室を与えられました。前回は医長でしたが、特別待遇で与えられていたのですが、実は形成外科学会認定医試験の勉強ばかりに利用していました。この年は部長として大手を振って滞在できました。部長室と言っても大部屋を本棚とパーテーションで囲っただけですが、作り付けのデスクが、横長でパソコンの置き場所として並べられました。月に一回の講演の週の数日前からは、外来や手術や回診等のデュティー以外の時間はパソコンの前に張り付いていました。
講演の場所はいろいろです。寮の大部屋を使う事もありました。対象者はというと、もうお判りでしょう。選挙対策です。丁度この年選挙があり、徳田理事長が出馬しています。党からも出ていました。街で選挙活動をするのではなく、医療講演のビラ配りをして、来てくれた人には個別に投票以来をするのです。巧妙な合法的選挙活動です。ですから講演は人寄せパンダです。でも私は真面目に講演しました。
このブログは当初啓蒙から入りましたよね。未だに、チェーン店系美容整形屋の垂れ流す嘘の宣伝を信じている市民は多いのですが、私の様に本当の症例提示をする啓蒙活動は少ないようです。ましてや、未だに形成外科と美容外科の区別が付かない国民がほとんどで、更に何故形成外科に掛かったか意味を知らない市民がひっきりなしです。要するに日本人は、資本主義に基づく広告情報は見るけれど、知識とならない反知性主義者ばかりなのです。このブログで、私は真面目に医療知識、それも毎回アップデートして披瀝してきました。幸いにして、読者の多くはご理解されていて、来院するなり私の説明に納得されるから、お互いに期待感が高まり、結果にも満足が得られています。話は戻して、茅ヶ崎徳洲会での医療講演に臨むに際しては、真面目で嘘の無い、そして当時は形成外科分野はもちろんの事、美容整形という言葉に忌避感情を持っていた市民に正しい概念を教えようと意気込んだのです。
今から20年近く前はバブルが弾けて失われた20年のの始まりの頃でした。バブル期に非形成外科の美容外科チェーン店が雨後の筍の如く開設されて、景気低下してもこの分野は落ち込みは軽く、広告代理店からは、むしろ狙われて各院とも拡大していました。そんな中で一般市民は美容整形を忌避する者と賛成する者に分かれつつありましたが、形成外科に対する理解は全く進みませんでした。
まず、医療を3段階に分けます。第一義は生命を救う医療。第二義に機能を保つ医療。第三義は形態を作る医療に分けました。形成外科は第二目的と第三目的を持つ医療です。眼瞼下垂症の手術は機能の為ですが、形態をよくしないと人前に出られないから、形態も重視します。 次に、整形外科(美容整形は違法な科目名ですと告げ)と形成外科と美容外科の違いをもう一度説明します。どの医療も患者さんに取って求められるのです。夫々の目的を説明したら、夫々の症例を提示します。こうして、啓蒙していくと、徐々に患者さんが来院する様になりました。講演目的が選挙対策でも、面白い内容なら興味を引いたのです。そのうち講演が楽しみになりました。来場者で来院する患者さんは、ある程度の理解の上来院するから、期待感と結果に対する満足度が高くなるのです。上段に記したこのブログの理念は、もう20年前のこの年の講演でつかんだ手応えを利用しているのです。
ところが、選挙が近づくと知っての通り!、講演のスタッフが選挙に駆り出され、ある者は鹿児島に派遣され、またある者は東京のてこ入れの為に毎日相対する様になります。勢い医療講演への意欲は逓減していき、私も何かやるせない気持ちになり、やる気が失せてきました。でも患者さんは漸増していましたから、やりがいのある毎日でした。
茅ヶ崎徳洲会総合病院は昭和48年と、徳洲会の関東進出の先駆けでした。鎌倉と大和と組んで三院で研修医を雇い、専門医に育て上げていました。皆真面目でした。上層部は所謂アウトサイダー、医局で冷や飯を食ったり、飛び出たりした医師が拾われて来ていました。でも彼等がまた医師としての人格が高く、実力も高いので、一緒に働いていて気分が良かったのは確かです。さて北里大学形成外科医局から茅ヶ崎には出向派遣が10年目になっていました。前回の茅ヶ崎のとき私は一般的な形成外科の患者を掘り起こし、症例を増やしたので、出向者を二人に増員してもらえました。今回はまた下に研修医を派遣してもらえる事になりました。その頃から、女医が増加していました。半年ずつ二人の女医が出向しました。そしてそれは私に取っては好都合でした。というのも、私が推進した眼瞼の手術症例ばかりでは認定医の症例には足りません。下に居る彼女等は茅ヶ崎では、認定医の症例を集める事を余り求めません。要するに緩い気持ちだったのです。しかも女医だから、美容的要素の加わる眼瞼の手術にも興味があり、喜んで協力してもらえました。
こうして、今に至る眼瞼の手術に没頭しました。因みにバイトは銀座美容外科に土曜午後に、もう一日研究日にはコムロで続けました。ところが、突然のアクシデントが訪れました。父が病魔に倒れたのです。この時は長期入院だけで生還しましたが、衰えていくのは目に見えていました。そこで、銀座美容外科に北里大学形成外科医局からの出向との形式で常勤する事にしました。それは晴天の霹靂でした。医局の教授は悩んだ末許してくれました。何と優しい人なのかと感じ入りました。
その件は次週以降として、その頃の斯界の動きを羅列すると:日本美容医療協会、日本美容外科医師会、日本美容外科学会JSAS、日本美容外科学会JSAPS等私達は多方面に渉って活動しはじめます。コウモリというか、二股です。四股ではありません。その点から次回説明していきます。