時系列に戻ります。平成9年(1997年)の茅ヶ崎徳洲会は一年で辞します。翌年は銀座美容外科医院に北里大学形成外科・美容外科医局から常勤で出向します。この年には研究を再開します。もちろん臨床的には美容形成外科を診療します。JSAPSでの発表もします。常勤で美容外科診療をする際には、経営も頭に入れなくてはなりません。その結果予期せぬアルバイトの口も発生しました。
そのときでしたか、北里のUc教授が声を掛けてくれて、翌年大学に戻ります。その辺りの経緯からその後への方針が見えて来ます。そこで平成10年(1998年)12年次から再開します。
銀座美容外科医院は昭和36年に父が開業した無床診療所です。当初は整形外科と皮膚泌尿器科を標榜していました。これまでご紹介した通り、銀座東一診療所と言って、北里研究所皮膚科部長がサテライトとして開設し、院長になった際に父に譲った施設ですから、皮膚科を標榜していました。当時は皮膚科と泌尿器科は一体でした。皮膚の病気で多かったのが下の場所だったからです。泌尿器を標榜していたので、幸か不幸か男の下の治療のが殺到したそうです。因みに十仁も元々泌尿器科から始めたそうです。場所柄、築地の男=男の中の男みたいな猛者が殺到しました。遠洋漁業では、寄港先での遊興が最大の楽しみだそうです。その為に使える、使い易い、強いおしもを作っておくのが得策なんだそうです。しかも当時は遠洋漁業は大儲けしていたので、築地の丘に上がる度に、船長が船員を引き攣れて来院したのそうです。実はこの平成10年になっても来る人たちはいました。
昭和40年代には銀座整形と名を変え、美容整形がメインの稼業になりました。とは言っても父は慶応大学外科医局から北里研究所病院に出向して、胸部外科を診療していただけ、そこでは当時結核に対する胸郭形成術が多用されていて、胸を潰して結核を根治した患者さんに、シリコンジェリーの注射をしたのが唯一の美容医療の経験でした。また、父の叔父で当時同居していた栗城先生が開業前に赤坂の前だ病院に勤めていて植皮術の経験がある為、薫陶を得た事も関係あるかも知れません。因みに森川家は会津の猪苗代で代々医師でしたが、私が小学生の頃に父の母=祖母が秘伝の古文書を持って来て、やけどに対する自家製膏薬のレシピといっても、あの時代劇でよく出て来る帳面みたいのに書いてあるのを見せてもらった事があります。父はどちらも意識していたたようで、美容的なというか形態的な目的を持つ医療をするつもりだったようです。
私は小さい時から父に可愛がられていて、小学生時には必ず毎日曜日には何時間もキャッチボールをしました。一緒に遊ぶのが楽しかったです。だから私は、我が子達とも出来るだけ遊んできました。そして父は私達家族を医院の社員旅行にも連れて行きました。そこでは看護婦さん達にも遊んでもらっていました。その人達は、この年もまだ在職していたから、参ったな~って感じです。そもそも私は、幼少時になぜか診療所を何回か訪れています。職住同場所の医院ならまだしも、同じ都内でも住んだのは千駄ヶ谷ですから、父は通っていました。ただ覚えているのは、診療所の待合室に行ったのと、診察室で手段診察している際にちょこっと座って見ていたシーンは今でも脳裏にあります。その頃には、美容整形は少なかったので(とはいっても昭和40年には山手線全駅に美容整形院はありましたが・・)、場所柄もあり、銀座整形は混雑していました。バブルのはじける平成年代には閑古鳥が鳴いていたのに比して、昔日の感があります。
その後父は医院を隣のビルに移し昭和53年の標榜後も銀座整形を名乗り続けたら、中央区保健所が来て改名した件は、これまでにも記しました通りです。こうして銀座美容外科医院として丁度私が大学に入った年から診療していました。
平成10年1998年に北里大学形成外科・美容外科講座から、銀座美容外科医院に出向しましたが、診療行為の内容は特に面白くないのですが、形成外科出身の美容外科医である私と、胸部外科出身の美容整形から名ばかりの美容外科へと変遷してきた父の医学的というか美容医療についての議論や対話はかなり深く、非難の応酬と闘争さえも起こりました。
長くなりそうなので、一度止めます。