銀座美容外科に出向した平成10年の続きです。
日本形成外科学会認定医受験ための勉強の結果、形成外科医として、最低限の知識が身に付いています。形成外科の知識は医学部の卒前教育では僅かしか触れません。また比較的新しい医学分野なので、年配の医師はその存在さえ知りませんし、美容整形や美容外科との区別さえ出来ない医師が大多数です。いってみれば形成外科医療は隙間産業で美容整形は成長産業でした。でもだからか、美容整形は体系的な医学上の学問に裏付けられていません。体系的な医学を確立していません。それどころか、医学的知識なしに診療して来た為に、医学的にあり得ないような行為が行われ、確かに少なからずの合併症例が存在しています。
そして、私はその1年間で愕然としました。あり得ねえ〜な術後合併症を数々見せつけられたのです。顔面神経麻痺なんかザラ。医原性眼瞼下垂症も慢性的に進行するのでこの頃顕在化するケースが多発していました。鼻や額に馬鹿でかいプロテーシスを入れたために出た症例も2例見ました。そもそも鼻のプロテーシス後の症例を何らかの目的で開けてみると、片側の鼻翼軟骨の上に乗っかっている症例がありました。また、シリコンジェリーによる豊胸術後のごつごつになった症例を3例ほど私が取らされました。そもそも初期は(1960年代)は長期経過が不明だから致し方ないとしても、合併症が発生し始めてからも父は引き続き症例を重ねたから今頃多発したのだ、ということです。幸にして、父は顔面にはあまりシリコン注入を好まなかったので稀でしたが、昔からの患者さんはワンダリングする人がかなり居て、父がシリコン注入していないのに、他院でしてきて経年変化でブツブツになった患者さんも散見しました。ちなみに「人形の家」さんは、父が重瞼術等をしてきれいにしたのに、有名なシリコン屋であるY整形で注射しまくったから、今や見られたもんじゃあない状態です。みなさん知っていますよね。
そもそも美容整形という診療科目はありません。現在でも医学教育において、卒前教育では形成外科の講義はわずかしか受けませんし、卒後研修は形成外科医局に入局してからです。美容外科の講座を持つ大学は数えるほどしかなく、卒前に教育する大学はごく少ないです。卒後にも標榜していない大学病院は美容外科の医学教育はしません。そもそも昔から、美容整形という科目はないので医学教育はされません。ですから、過去に診療していた父の時代の美容整形は自己流です。父は慶応大学一般外科(胸部外科専門と限らない。)医局出身ですから、外科的な基本的手技と知識は身に着けていますが、ひどいのは外科系でない科目出身の医師もいたことです。いや、今でも居ます。自己流といっても、どこかのチェーン店で診療しながら、見て盗んで行って覚えていくのが今の多くの美容整形屋の教育法です。怖いですね。
そんな訳で、私は1年間銀座美容外科に常勤して、やはりこれはまずいんじゃあないかと、痛感しました。何が問題か、またどうやって国民に問題を提起するべきか考えてみました。 そしてまた、何故このような状況が改善されないかも考えてみました。
第一に感じた問題点は、美容整形は悪いものと考える国民がまだ多かったこと。そして、美容整形から美容外科に科目名が変わっても同じイメージ下にあること。さらに美容外科と形成外科は標榜科目に指定される際のいきさつから、二つの学会が反目している為に、技術的、学術的な交流がなく、一方のJSAS側=非形成外科はビジネスに徹してコマーシャリズムに走っているから医科学的合意等無視している。そもそもコマーシャリズムに於いては正しい知識を広報するのではなく、クライアントを集める事が目的ですから当然そうなります。もう一方のJSAPS側=形成外科出身の学会は大学形成外科での学術的知識を活かせばいいのに、美容外科を実際に診療している大学病院は数少ないし、OBで開業している者も宣伝広告を控えていたので、市民に美容医学の啓蒙がほとんどされていない。もっとも市民や他科の医師が美容整形をばかにしていたから、美容外科の医学的見解を聞く耳を持たなかったからでもあります。
そんな事を感じていた1年間でしたが、実際に診療の場面やその前後にも父と意見を交わしました。私が「これ顔面神経やっている。」と言うと父が「そんなの知るか!」と返す。鼻のプロテーシスの入れ替えの際に「右に寄っていて軟骨が潰れている。」と指摘すると父は「でも曲がって見えないからいいだろお〜!」と開き直る。私が「だって親父さんは鼻翼軟骨みた事無いでしょ?、だからちゃんと入ってないんだよ。」と言っても父は「だって軟骨何か見ないでももう30年個の手術して来たんだから、文句あるか?。」とすごむのでした。
そこで私は父に提案してみました。当時父は日本美容医療協会の理事としてJSAP側にも顔を出し、JSASでも学会会長として主催していました。その団体で美容医学の医科学的知識の講義や、試験をするべきでは無いかという考えです。ところが考えてみたら、父を初めとして理事陣でも、年配者では試験を受けていないのでたぶん体系だった知識なんか身につけていない。彼等にそんな試練を与えられる訳は無いだろうと言い返されました。彼等美容整形屋は、体系立てた知識より経験が売り物ですから。日本美容医療協会には大学の形成外科の教授陣も参画していました。私の上司(まだ当時の私は、北里大学形成外科・美容外科医局員です。)のUc教授もそうです。一度その話をしてみました。すると「いつかはそうなる。でも今は無理だろう。お年寄り達が健在なうちはね!」と答えられました。妙に納得したのを覚えています。しかしその後Uc教授が協会の理事長になる頃にはその方向を共に模索する事になります。それは翌年の平成11年、1999年、私が13年次です。北里大学病院に復帰して研究員兼助手として、教授の片腕として、美容外科を診療する機会を得てからです。その話題は次回以降に廻しましょう。
そんな風に実際の美容外科診療の場面では、父と毎日言い争っていましたが、父は私に唯一大事な事を言いました。「お前を形成外科に10年も居させてやったんだから、出来る様になるのは当たり前だ。早く俺と一緒にやろうぜ。」更に「新幹線整形だ。二人で二つのクリニックだ。俺の夢だ。」考えてみたら、父はそれまで30年近く一人で診療してきました。時折弟子入りしたい医者が居ても、すぐに追い出して教えてあげませんでした。何故なら、美容外科は顔を治すのが専門ですが、顔を直すと人格の一部が変わる。逆に言えば一人ひとりの求めるタレント性に合わせて顔を治していかなければその人に取っての豊かな結果とは言え無い。だから、一人の医師が夫々の患者の人生に寄り添っていくべきで、医師を変えないで人生のコンセプトを把握しているべきである。そんな哲学からです。父は1961年に開業してから、こうして多くの患者に一人で向き合って来ました。その父が私に二人でやっていこうと求めたのです。父が初めて複数の医師での診療をしようと思ったのです。でも考えてみたら、そりゃそうだ。父子だからと感慨を受けました。更に言えば、父は私を幼少時から美容整形医にしたかったと考えられます。後継者という意味だけでなく、複数診療での相の手が欲しかったのかも知れません。
実はその頃、新幹線整形ならぬ飛行機整形の話が持ち上がっていたのです。本当の意味でのチェーン店では無く、十仁の一院を任せられる話です。十仁は父の後輩ですし、長年競り合って来たと言っても非形成外科系の重鎮通しとして実は仲がいいし、一応U院長は父を立てていたから、タイアップするのなら、お互い半分チェーン展開の修練になると考えたのでありましょう。私も悪い話では無いと思いました。その件は次回に繋ぎましょう。