平成11年、1999年、年齢は40歳となります。北里大学形成外科に入局して13年次です。この年は久し振りに大学病院に勤めますが、それでは大学に戻って何をしたのでしょうか?。大学と大学病院での仕事には三つの役目があります。臨床、教育、研究です。前回卒後教育の一環を紹介しました。今回は、本職となる研究について説明をします。
そこで、この年の週単位での曜日ごとの時間的なデューティーの割合を思い出します。それ以外が研究の時間です。まず朝8時から毎日、当日手術分の各術者による術式プレゼンテーションで明けます。9時から2チームが外来診療と手術に分かれます。私は水曜の午後と木曜終日が手術のチームでした。金曜は外来手術枠ですが、研究員は担当しません。外来は月曜終日ですが、教授との二診でしたから、空いている時間もありました。火曜は午前の総回診の後、午後は翌週分の術前カンファレンスや、研究発表等を全員で喧々諤々行われます。
手術は主に美容外科手術に参画を求められます。つまりそれ以外の時間、水曜の終日が空くことが多く、木曜も午前は必ずしもデュティーではなく、金曜は終日フリーなことが多かったです。大体月曜半日+水曜3/4日+木曜半日+金曜終日がデュティーオフですが、金曜日は研究日とし、隔週で金曜夜から札幌に行き続けていましたし、銀座美容外科も手伝いました。土曜は大学病院はオフでした。したがって手が空くのは週に2、5日程度でした。週のうちの約半分が与えられて、自分の研究時間に充てられます。
ところで研究と卒後教育はどう違うのでしょう。
卒後教育とはその名の通り、医学部を卒業してから医師になり、どこかの病院(当時は多くが大学病院)に研修医として入局してから、医療のノウハウを教えてもらう。外科系なら手術法も、先輩医にアドバイスをもらいながら自分で調べ、さらに教授以下の医局員の前でプレゼンテーションしてゴーサインをもらうために詳しい知識を身に着ける。そんな意味ではほとんど受動的ですが、実際は論文を読みまくり自分から学ぼうとしないと身に付きません。それが教育を受けるということです。そしていざ手術となるのですが、前立ち(先輩医が目の前で助手をしてくれること。)の教授陣(講師以上のスタッフ)が手を取り足を取り教えてくれる訳でも、二人羽織で手を動かしてくれる訳でもありません。ただし、術中にウイットに富んだアドバイスをくれることがあり、目から鱗状態で、使える知識や技を授けられることもありました。このように臨床の診療場面で、教授以下のスタッフに管理されながら診療のノウハウ、特に手術法とその適応を一つ一つ、しかも時に体系的に身に着けていくのが卒後教育です。
本邦に於ける医学教育は、高校卒業後に大学医学部で6年間です。欧米では4年の大学理系学部を卒業した後に、4年間の大学医学部就学が通常のコースです。つまり日本では2年間少ないのです。逆に言えばUSAで医師は大学院2年就学後と同じ年数です。その代わりといっては変ですが、日本では卒後に大学病院で研修する際に推薦等不要で全員受け入れられ、卒後教育が医局制度の下で徒弟制度的に一定のレベルを保って受けられます。そして、高度専門的医学教育の機会としては、世界的には大学院での研究で行われるのですが、欧米ではメディカルスクールが大学院クラスなので在学中に2年追加で医学博士を取得する権利が生まれます。比して、日本では4年以上の大学院に在学しなければなりません。また、Alternative root;副線として未だに(特に当時までは)、大学院に就学しないで医学博士を取得するルートが残されています。したがって、医師資格取得後就労しながら同時に研究をしていき医学博士を取得する者が多く居ました。
しかも旧い大学医学部の病院では、未だに医局制度が残っていて、教授が主宰するグループが一体になって徒弟制度的な継続的な研究グループを保持しています。(ただし逆に臨床的な専門分野と研究テーマが平行しています。)何故なら、医学博士の審査権は主任教授にあり、教授の意に沿わない研究は審査されないからです。旧い大学では数年間を研修医や専修医として卒後教育を受ける間は病院から給与が出ますが(若いうちは困らない。)、その後は無給や薄給医局員として、大学では診療を少し、研究を継続、他の日はもう実力があるのだからアルバイトで給与を得て生計を立てていく様になる所もまだあります。
比して、北里大学医学部の様に新設の医大では、レジデントースタッフシステムを取る所が多く、6年間は有給でみっちり前期後期の研修を受け、チーフレジデントを終え認定医を得たら、出向病院でヘッドや二番手として臨床に専念した後に、研究員として大学に戻るルートが主流です。私は認定医取得後6年間も外回りをしました。臨床が面白かったのと、バイトとしていろいろな美容外科修行をする機会に恵まれたからです。
研究院(大学助手)は卒後13年が定年ですから、私は最終年に滑り込ませてもらった訳です。教授二奨められたのでもありますが、私自身研究テーマが頭にしまってありました。眼瞼の構造について、特に二重まぶたと一重瞼の違いについて説が混乱していたので、これだ!っていう説を立てたかったのです。今回事前説明に終始して長くなってしまいました。次回研究の内容説明を展開したいと思います。