2017 . 3 . 16

美容医療の神髄-歴史秘話第82話-”口頭伝承”:美容整形屋と美容形成外科医”その57”「相模原市から隣の大和市へ11:美容外科医か形成外科学医か?」

まだ14〜15年目が続きます。昭和12年〜13年;2000〜2001年は今から16年前です。北里大学病院は定年退職していますが、形成外科・美容外科医局医局団体の一員で、大和徳洲界病院形成外科・美容外科部長として出向していました。病院での話題を長く書きましたが、それでは美容外科の世界での立ち回りを書きます。

眼瞼形成術の臨床経験は学会活動にも役立ちました。JSASでの活動はこの年が最高潮でした。

さて、私達卒後に大学の形成外科に入局した医師は日本形成外科学会に加入します。学会加入年数は専門医取得の為にも必要だからですが、医局員しか推薦を得られません。そして私は同時に、当然の如く日本美容外科学会にも加入しました。初年には入らない者もいました。言うまでもなく、日本美容外科学会は同名の二つの団体が存在します。

その一つがJSAPSです。昭和53年に発足しました。日本形成外科学会加入を条件とするので、大学等の形成外科医局員に限定されます。6年次から正会員になり3年後から専門医申請出来ます。前回記載しました。JSAPSでは、父と共に毎年参加して、当時学会員は1000名以下でしたが、皆顔見知りでした。既にJSAPS学会員としてはベテランの域でした。父は1992年に発足したJSAPS側の公益法人である日本美容医療協会でも理事として、JSAS側との繋ぎさえもしていました。でもその結果2年後に面倒な事になります。

もう一つがJSASで昭和53年までは美容整形学会と称していたのを標榜獲得と同時に日本美容外科学会と改称しました。形成外科出身の医師は入りません。何故なら1997年までは二つの学会JSAPSとJSASに入ろうとすると、JSAPSは辞めさせられたのです。でも、ある時から二つの同名学会に同時加入しても怒られなくなりました。前から父は私に「JSAPSの会員はJSASに入っちゃいけないっていう法律でもあんのかよお。お前入れ。」って無理言っていたので、私は1995年頃見切り発進でJSASに加入しました。それは、日本美容外科医師会(JSAS系の親睦団体)の発足ト父の会長就任もあったからです。父は当然の如く、JSASでも重鎮で、しかも理事長で学会のオーナーであるJ病院のUm院長はK大の後輩ですから、いつも頼られていました。親睦団体である日本美容外科医師会でも中心でしたが、そちらの会長解任動議に遭うのは2年後です。

父がこの年JSASの年次総会を主催しました。Um会長に頼られたのです。しかもその頃からJSAPS会員を招聘し加入させていました。父は常日頃「二つの同名の学会が統一するまで運動するぞ。世の中に同名の学会が二つあって反目しているなんて例がない。だから美容外科はばかにされるし、国民から白い目で見られるんだ。」と夢を見ていました。そんな父だから合同への道程の一つとして、JSAPSとJSASの同時加入者である私に、主催する学会で発表させたがったのです。通常会長講演として、主催者が指名して一時間程度の特別枠を貰えますから、その時間を私に廻してくれました。当然として、私のライフワークである眼瞼下垂診療の集中講義を一時間もしました。しかも父は、`切開法の森川`として、(昭和40年代に売れていた芸能人のほとんどは患者です。)重瞼術切開法の名人とされていましたから、私がその称号を継いだ様な気もしました。しかも当時、JSAPS側というか形成外科学会では眼瞼下垂症のメカニズムと生理学や解剖学の研究が深まり、治療法も進化が見られ、信大の松尾清教授をマスコミに売り出し(あくまでも学術的記事)、JSAPS会員も一部がその広告を利用していました。私もその一人でした。

確か松尾教授にも、JSASで眼瞼下垂診療の講演する事を、事後か事前か忘れましたが報告しました。彼は「それはいいことです。眼瞼下垂を語らずして眼瞼の治療、ましてや重瞼術は語れないのです。いや重瞼術は皆受けるべきです。一重瞼は眼瞼下垂症の一部ですから、私は将来は重瞼術に保険診療が認められる様に運動しています。」と話題が違う方に進みながら、「だからあっち側(JSAS)にも眼瞼下垂症の勉強をしてもら方がいいに決まっています。」と賛同してくれました。当時はまだ、形成外科の世界でも眼瞼を研究している医師は少なく、上手に手を出せない者も多かったのですが、私は既に日本で唯一、眼瞼の解剖で医学博士を取得した専門家でしたから、先覚者の自負がありました。ましてやJSAS側の非形成外科医の医師の間では、眼瞼下垂症を知りもしない医師が大多数でした。もちろんチェーン店は保険診療機関を認可されないからでもあります。今や眼瞼下垂症治療はもちろん、皮膚性眼瞼下垂症である一重瞼を二重瞼に改善する重瞼術も切開式なら保険診療が認められる様になりました。今昔の感がありますが、私の講演もその行程の一つであったと自負していますし、松尾教授とも相通じるものがあります。

実際の講演内容は大和徳洲界病院形成外科・美容外科で集めた多くの症例を供覧しました。JSASの医師には初めて目にする疾患だったので、多くの医師に興味を持たれ講演後に質問攻めに遇ったのを記憶しています。症例は普通の眼瞼下垂症例が10例くらいと皮膚性眼瞼下垂症が10例くらいを供覧しました。機能と形態の同時改善が目的ですから、JSASの医師には青天の霹靂だった様です。父も満足して、「よくできました!。」と感嘆していました。

十仁札幌院を受けたのは11年次の平成9年;1997年でした。2年間毎週末通って、大和徳洲界に移った際に閉めました。その頃JSASに毎年参加し始めたのです。Um院長との繫がりも深まりました。わざわざ札幌から職員を動員した事もありました。大和徳洲会の年も毎年参加していました。同時に日本美容外科医師会にも深く関わり、しかもその中の枢要なメンバーは、私がそれまでアルバイトをしていたクリニックの院長が何人も居て、私が世話になったと父が礼を言うと、逆に私が誉められて照れている場合かという会話、が繰り返されました。彼等は私と父を介して、美容外科医師会でも懇意にして、医師間の繫がりを深めて行きました。私の様な形成外科医、JSAPS側からも使える医師をバイトに雇う為に、人脈を拡げたかったのでしょう。

当時21世紀に入ったばかりですが、20世紀後半戦後に興隆した本邦での美容整形の医師達の中で父は生き残りの最後の一人でありました。有名な存命者は、数名挙げられます。D婦人が外国に行く前に作り上げたF先生。わきが治療器に名を残すIn先生。シリコンお化け製造のY先生はその頃なくなりました。父、森川昭彦はJ病院のum院長やTクリニックより一世代上で最年長でした。間にJSAPS側の重鎮、所謂四人組等が存在しました。しかし、Um先生は日本美容医療協会発足時にJSAPS側に嵌められて敵視しているし、T先生は出身大学の先生と仲違いして敵視している。In先生は専門分野に注心しているから知らんぷり。父は美容整形上がり(元胸部外科医)ですから元来はJSAS側の人間でした。JSAPSにも加入していましたが一応でした。私が大学卒業して形成外科に入るかどうかの頃にJSAPS側との関係性を高めました。他の先生と違いJSAPSとJSASの仲を取り持つ二股+二のスタンスに立ったのです。

私は強力したつもりはありませんが、結果としては私も父に従い数少ない四股になり人間関係を築き、各団体に於いても父の参謀みたいになり、付き合いを広げる事になりました。父はいつも言っていました。「同名の日本美容外科学会が反目しているなんて馬鹿みたいな事で、ドンキホーテになろうが合同するまで頑張るぞ。」と常に夢を見ていました。現在までに数年前にその機運が生じ、かなり根回しされました。T先生も翻意したのはいいのですが、Um先生に拒否され、逆にT先生は裏切った事になります。数年後には専門医無しには開業出来なくなる法律が成立するでしょう。JSAPS側は手を打ちましたが、JSAS側も巻き返しを計ります。それまで合併するか?、それとも仲間割れしたまま主導権争いが続くかは不明です。父の遺言は実現しなさそうです。ちなみに私は保険として、両方の専門認定を持ちます。

同時にその後の私達の行く末を決めるアルバイト先を得ます。さらにアルバイト人生は、教授も巻き込み進行します。それが私の進路としての話しです。銀座美容外科で非常勤での診療も継続していましたが、父も体力が落ちて来たので、継承について検討し始めましたが、障害がありました。

次回はいよいよ16年目以降への布石となるアルバイトの件です。北里大学形成外科・美容外科医局から退局します。