私の医師歴16年次、平成14年は2002年ですが、父が銀座美容外科医院の前身を開業したのは昭和36年ですから、41年来の念願の2院制での診療となります。昭和53年に国会で美容外科標榜が認可されたのをを皮切りに、複数院での美容外科診療で全国誌での広告で患者を集める好効率のチェーン店方式が横行しました。TクリニックのT院長は名古屋と赤坂を新幹線で行き来してしかも手術台二台を並べて同時並行の手術をしまくる。そんなやり方を父は`新幹線整形`と呼んでうらやましがり、私に「早く二人で新幹線整形しようぜ!」とせっついたのでした。
私は形成外科医療が面白くなってしまって、北里大学形成外科・美容外科医局に在籍し続けましたが、15年次に教授から「お前は臨床家が合うだろお。」と教えられ開業する事になるのです。教授や医局員にもアルバイトしてもらい、美容外科の臨床診療に浸ってもらうのも目的の一つです。それでは、新幹線整形かと言えば飛行機で行き来します。それに銀座美容外科にブランド力は有っても、広告力はありません。したがって複数院に一誌の広告で患者を呼ぶチェーン店方式ではありません。その時点では大分院はK氏が運営する経営ですが、ゆくゆくは銀座美容外科と合併して、ブランド力とネーミングを利用して展開しようと目論んでいた様です。
父は、私がバイトに行っている14〜15年次から既に、「ゆくゆくは新幹線整形だ。」と楽しみにしていました。ところがその後、父が体調不良となり、入院を繰り返す様になります。実は父は飛行機嫌いですから、大分院には一度しか登場しませんでした。仕方なく私は、平日は大分院、土日を絡めて週に数日は銀座美容外科医院の診療を、一人で掛け持ちする事となりました。私はまだ40歳代ですから可能でしたが、家族はつまらなかったかも知れません。でも父は喜んでいました。父も私の子供の祖父ですから親戚の一員としてたまに遊びに来ました。そこには邪魔な人も関わって来ました。それでは先ずは、16年次の始まりから記していきましょう。
実際にはA美容外科大分院と称します。現在は存在しません。その訳はこの後の3年間の話題です。危ない場面もありますので、実名でなくK氏が運営しているA美容外科と称します。当時A美容外科はチェーン展開し始めていて、2002年には松本院と浜松員と旭川院も存在していました。宮崎院は閉めました。前年のアルバイトでは、これらの地方院にもアルバイトに行きました。
経営が誰であれ、診療所にはそれぞれ医師が開設者として届けなければなりませんから、医院の数だけ医師は必要です。ここでは詳しくは紹介しませんが、K氏はコムロで人脈を作りましたから、そこでのバイト医師が主体でした。当時のコムロは非形成外科医の主宰するチェーン店の中で唯一、形成外科医を主にアルバイトに雇っていましたから、有用な医師が多かったのです。結局その中から4人が抜けてリッツ、3人が抜けてベリテを設立して言ってしまい、残りの使える某大学の医局員と退局者が数名拾えたのです。とはいってもギリギリの数の医師しか居ませんから、お互いに合うチャンスは稀でした。ただし2001年には既に、各院に開設管理者が充足していました。アルバイトに行くと患者さんは多いのですが、フルタイムに開いていないからでした。その中で大分院はフルタイムに手術が埋まっていました。何故大分なのかを説明します。
大分は父も有利な場所だと言っていました。何故かというと女の街だからです。女性が女を売って生きる街だからです。大分市の県庁所在地は大分市です。江戸時代から府内として大友氏の居城があったからです。でも電車で10分も乗れば隣には別府市があります。歩いて1時間もかかりません。ここがポイントで、別府市は日本最古の温泉繁華街の一つで、日本三大温泉町の一つに数えられます。そこでは、花街も盛んで、昔は芸者も沢山居たし、飲み屋もストリートに並んでいたし、他に産業もないので、人口12万人のほとんどすべてが観光産業に関わっていたのです。当然女性が働く場が多く、しかも女性がお互いに美貌を競う事で街全体のレベルアップを図る事が求められたのです。先の戦中は軍都として歓楽街になり、戦後はGHQに接収されて栄え開発されて、高度成長期には大規模な施設も林立して、経済的にも向上しました。更に大分市内にも関係者が、多く経済的にも人の流れも関連しています。近年はプランニングされた温泉街である湯布院が経済的に向上しましたが、鉄道でも自動車でも交通圏内で、大分にも来ます。一時は大分を凌ぐ経済力もありました。
女性が稼ぐ街で、経済的に向上すれば、当然美容整形の対象患者も増加します。これは結果的に判ったのですが街に居る女性の多くが美しい。私はプロですから治している可能性も推測がつきます。別府の街を歩くと年配の女性は芸者上がりか旅館の女将かと見られる様な色っぽい人(女)だらけです。治し方は昔風ですが、自信に満ちた顔つきの女性が街中を闊歩していました。
そしてちゃんと私も記憶に停めていた事があります。私の家では小学生時には毎年夏休みに数日の家族旅行をしていました。ある年北部九州周遊に行きました。福岡博多、熊本とお決まりのコースを回って大分別府に泊まりました。その晩疲れて子供だった私と弟は夕方に寝てしまいました。実は大分は食事は大したものが無かったので起こされないでいましたが、12時頃目が覚めましたが、面倒なので布団に入って寝ている振りをしていると、父と母が小声で言い合いしていました。「行くの?」と母。「まあいいじゃない!」「知り合いがいるんだ。」と父。家族旅行中にしては珍しく父は夜の街に繰り出して行きました。それまでにはなかった事でした。最近母に聴いてみたら「患者さんに遭いに行ったんでしょ?」って覚えていました。銀座美容外科医院の患者は全国に跨がっていましたが、高度成長期とはいっても経済的に距離的に九州からは数少ない中で、大分の患者さんは数人がリピーターだったようです。経済的に猶予がある為と女性が美貌を求める土壌だからです。その時は患者さんのお店を訪ねて行ったのです。子供の私は、そこが風俗か飲み屋かは知る由もありませんが・・。
そんなに大分や別府の風俗は特別です。大分院に出向する際には父とも相談しました。柏手を打って賛成されました。「いいところに目を付けるなあ!。さすがだ!。でも何でだ?。」と言われ、返答に困りました。K氏の関係でそうなったので、何故と言われても答えはありません。でも前年バイトに行った際に既に、大分は女の街でしかも美容外科が飽和していない事はリサーチしていました。だから父の言葉は理解できました。しかも父はその後「ああそうだ。Oh.ていう患者が来たろう?。昔からの馴染みでさあ。大分から来ては、遠いからって打ちに泊まったりしていたんだぜ。その格好で遊びに一緒に行ったりもして、面白い子だったよ。」子っていっても私よりずっと上の患者さんです。その後彼女は大分院で私が修正手術して、しかも何十年振りかに銀座にも来院しました。私に礼を言わずに父に「息子さんはいい先生になったわね。有り難う。」って懐かしんでしました。
こうしてさまざまなエピソードを書き始めたらきりがないので一度止めます。
まだまだ大分での騒ぎは続きます。
同時に銀座美容外科の継承についても考察していきます。これは父の周囲の問題があるからです。ところでその頃の美容外科医療の世界については、私は対立するJSAPSとJSASの同名の二つの日本美容外科学会で活動します。ともに法人格を持つ日本美容医療協会(公益法人)と日本美容外科医師会(財団法人)を傘にしています。つまり4団体で活動します。