2017 . 4 . 27

美容医療の神髄-歴史秘話第88話-”口頭伝承”:美容整形屋と美容形成外科医”その63”「銀座から地方都市へ5:美容形成外科学医」

時系列は混乱していますが、美容整形出身の美容外科医である父と、形成外科医であり美容外科開業医の道を進んだのは私が16年次で平成14年は西暦2002年でした。開業後まず、形成外科側の美容外科医グループ間に交流を広げました。

前回Om.先生と父との関係から、日本美容医療協会4人組との暗闘を記しました。でも開業後は4人組と深い付き合いをします。私は開業後、いくつかの団体に所属しました。臨形には正式に所属しました。美容医療協会は発足時に加入しましたが、臨形とISAPSにも加入したので、JSAPS側の美容外科医とは頻繁に会合を重ねました。ある時は協会の講習会にも参画しました。その際講師のH先生は私を手招きして助手をさせました。重鎮の配下である事を若い医師に見せ付けたのです。

そんなある時ISAPSの会合だと思いますが、酒も入ったH.先生に意地悪を云われました。「森川先生は親子揃って貰い物人生だものな!。ありそうな話しじゃあないか!」円卓を囲んで10名くらいのテーブルで食事中にですよ。みんな知り合いの大学の偉い先生や仲の良い美容外科医の中でです。隣の誰かが「どういう意味ですか?」と訊くとH先生は、「森川先生のお父さんの昭彦先生も先輩からクリニックを継承したんだ。森川(私)先生もクリニックを作ってもらって院長になったみたいだね。」一応私は「だからどうなんですか?」と反駁しておきました。すると、H先生は「だけど彼は(私)形成外科医だし、僕たちの仲間だからこれから仲良くしてやってね。」だって。いかにも酒の勢いで余計な事言ったの取り繕うみたいでした。

でもウソじゃあないので、悪びれる訳にもいかないし、言い逃れは出来ない。前にも書きましたが、父は昭和36年に銀座東一診療所を継承しました。慶応大学外科医局から出向して北里研究所病院に勤めていた際に、皮膚科部長がサテライトクリニックを同所に開設していたのですが、彼が院長に推挙されたので手放す事になり、父にお鉢が回って来たのです。でもH先生はよく覚えていたもんだ。それだけの古株だし、私と同じ二代目だからです。私が継承で開業したのは美容外科界では知れ渡っていました。学会場で名札に記名するから会う人みんなに説明しますから。確かに借り物です。でもそれだから、数年後には揉めます。その意味で昭和36年から平成17年まで44年間銀座美容外科を開設して来た父を尊敬します。

ところでお前はどうなんだ。数十年前に亡くなった故人ですから、実名を書きます。平賀先生は二代目ですが、それこそ出自は正反対です。母親の恭子先生は私の父と同世代です。と言う事は数少ない美容整形医師がテレビでしのぎを削っていた頃です。父は笑点にレギュラーを持っていましたが、他はたまにでした。恭子先生は女性ですから売れっ子でした。ただし当時もう一人売れっ子の女性美容整形医師が存在していました。毎週イレブンPMの藤本義一のコーナーに出ては喧嘩していました。どっちが上手いかの言い合いです。女らしい汚さでした。恭子先生はいつしか出演しなくなり、代わりに父が引っ張りだされました。当時小学後高学年の私は見てはいけない時間ですが、この時だけは許されていました。平賀恭子先生は新大久保にクリニックを開設していて、当時千駄ヶ谷に住んで代々木駅から目白の中等科まで山手線に乗ると、大きな看板が毎日目に飛び込んできました。テレビでの言動と派手な看板がマッチしていて、しかも一応父のライバルでもある訳ですから苦々しく思っていました。ご子息の平賀先生は東大を出て形成外科に入りました。医y港くよりもサテライトである(むしろこちらが本家)警察病院形成外科で研修された後に母君(淀君みたい)を継いだのです。でも出自的には前世代は美容整形で下品で巷間から鼻つまみ者、次世代は形成外科医の基礎を積みながら美容外科医として育っていくのは私と同じです。やはり継承には違いないし、余りにもやばい母親の跡を継ぐなんて貰い物に等しいんじゃないですかね。目くそ鼻くそを笑う感覚です。

その後私は、N先生には可愛がられます。E先生と父は毎日一緒に碁会所で遊びます。父が日本美容医療協会の理事に当選し、月に1回?の理事会に出席する際に必ず4人組とも顔を合わせるのですが、考てみれば協会発足から既に10年近く経て、理事間での4人組の立ち位置も変化が見られたのでしょう。だから非形成外科医の父と深い仲になる者もいました。2対2かも知れません。E+N:H+Uというところです。

E先生は前回紹介しましたが、東京駅の前に開業していま。大分出身で大分クリニックも開設しています。当時息子さんにさせたかったようですが、今時珍しく形成外科の二代目なのに非形成外科でしたから、すぐにこの世界から手を引きました。私が大分を継承したころ、父は協会で懇意になり(私を出汁にしたのか?謝意を表する為か?知りませんが・・)趣味を遭わせる様に後に打ち込みました。父は昔は雑誌社(平凡社=現在マガジンハウス)の編集長とよく打っていましたが、15年来は相手が居ませんでした。E先生は東京駅近くの碁会所に通っていたそうです。その頃は毎日示し合わせて二人で通い始めました。父は入院するまで通い続けていた様です。E先生は形成外科医と言っても本ちゃんでないし、世代も近いのでウマが有ったのでしょう。それにE先生は父の念願の二つの学会の合併にも手を貸してくれそうな出自でした。

実は私は、E先生のクリニックを継承するとは知りませんでした。ただ単に大分の土壌が美容外科に合っていたと考えていたのと、コンサルタントのK氏が話しを進めてから後で知りました。しかも、E先生と同僚で地元人のK.S.先生は月一回程度シレッとバイトに来ていました。二人は毛の手術で有名でしたが、美容外科手術は余り・・でした。

話しがどんどん広がりますから、また一度止めます。