2017 . 5 . 11

美容医療の神髄-歴史秘話第89話-”口頭伝承”:美容整形屋と美容形成外科医”その64”「銀座から地方都市へ6:美容形成外科学医」

GWは2日間休みました。歴史の話題はまだ尽きません。16年次からの開業の話題が続いていますが、まだ実業の話題に戻れません。そんな中父と私は二人三脚の様にして、形成外科出身の美容外科医の世界と、非形成外科医で美容整形かあがりの美容外科医の仲を取り持つべく暗躍していました。私もいやでもその流れに首を突っ込みます。これは何回も試みられたうちの一場面です。

ところでもう一度、この世界のグループを整理して説明しておきます。形成外科と非形成外科医に分けます。

戦後高度成長期に美容整形が興隆しました。彼らは独学です。外国の文献を呼んで学んだ医師はまだましな方で、すごいのは他の美容整形院に知り合い(彼女とか?)を受けさせて、プロテーシスを抜いてみて真似るという人体実験みたいな方法も行なわれました。

戦後GHQが形成外科医を動員したので、薫陶を受けた医師が居りました。その後昭和31年に東大と警察病院で形成外科が開設され、さらにUSAに留学して形成外科学を修めて大学病院や大病院に勤めた医師が形成外科医となりグループ化しました。USAでは形成外科Plastic surgeryと美容外科Aesthetic surgeryは同一科目ですから、彼らは帰国後も両方を診療しました。

それでも父によると、二つのグループは美容整形医同志として交流もあったようです。

ところが昭和51年の形成外科の標榜獲得時に喧嘩になりました。美容整形の被害が話題に上がり始めたのと、形成外科医がかなり育ち、各大学医学部病院にも講座や診療班が開設され始めたので、日本形成外科学会が標榜を目論んだ際に、美容はしないからと言って標榜を獲得したのです。これは、当時の学会長の「作戦です。」との記載が日本形成外科学会誌に残っています。美容整形医を標榜させないつまり、美容整形はまともな医療ではないと見做されるように図ったのです。そして形成外科診療には保険適応を勝ち取ったのです。

これが後年まで後を引きます。美容整形屋を駆逐する為の作戦として形成外科の標榜を先行したのですが、結局その2年後に美容外科として標榜されます。それまで形成外科側は整容外科と、非形成外科側は美容整形と称していました。非形成外科側は美容整形を標榜科目にしようと画策しましたが、整形外科学会が猛反対しました。仕方なく美容外科という科目名を作りました。非形成外科医側は資金力があったので政治を動かし、形成外科側は医師会に根回ししました。嬉しかったので国会で法律が通った際の国会中継で医師会長が証言した画像は、記憶に残っています。最後は医師会も巻き込んで政治的解決がなされました。父も銀座の社交界(ただのクラブ通いです。)で、脇役として手伝いました。

ところが2年前に形成外科医は自費診療の美容医療をしないと宣言したものですから、大学病院や派遣される病院で形成外科を標榜したら、美容外科診療をしてはいけないムードになりました。私が昭和62年に北里大学形成外科に入局した際も上司達から、「お前は美容整形屋の息子だが、大学医局では美容はしない。だいたい美容外科の患者はみなキチガイだ。」とかいうふざけた差別論をぶって、私の父を非難するかの様にほざいていました。

もっとも一部の上司は、優しかったです。後に教授となるUc助教授は4年目に眼瞼の手術の前立ちをしてくれて「お前さんはこれから眼瞼の手術を毎日するんだろう。今日がその始めての日だな。頑張れよ!」とか言って教えてくれました。現在その通り毎日眼瞼の手術をしていますが、この時始めてまともに手術しました。そもそも、私を北里形成外科医局に誘ったのは入局時に講師だったFy先生でした。大学5年生時に臨床実習(ポリクリ)で1週間形成外科を回るのですが、最後の日に懇談会があります。学生担当が当時助手のFy先生でいきなり「森川先生は当然入局しますよね。僕は今、今後の開業の為の勉強会として医局内でワークショップを開いているんだ。アア君は将来継承するからその一員として、ワークショップの幹事になります。」とか調子のいい事言ってました。入局してすぐにFy先生のフェイスリフト手術に入らせてもらって嬉しかったのを思い出します。この様に一部の形成外科医は美容整形をバカにし、一部の形成外科医は美容外科に侵出しようと模索していました。形成外科医が美容外科を積極的にしよう!と、学会で宣言されるのはずっと後の1998年でした。

話しが脇に逸れました。昭和53年の美容外科標榜時に、学会が二つできます。形成外科側は日本美容外科学会JSAPSを、非形成外科側(=元美容整形医)は日本美容外科学会JSASを発足させます。そして日本医師会の下部団体として日本医学会という団体があり、各標榜科目の学会は加入するのですが、同名の二つの学会は加入出来ません。医師会から、ひいては厚生省から学会が公認されないという事です。今でも学会認定専門医が法律上広告出来ないのはその為です。一応インターネットは広告でなければ容認されています。関連する団体を整理します。

形成外科側は日本形成外科学会を厚労省から公認されています。日本美容外科学会JSAPSは現在日本形成外科学会の下部団体となるべく、厚労省に対して策を立てています。他に日本美容医療協会があります。厚生省管轄の公益法人で、美容医療の正常化と安全性の担保とその啓蒙を目的としています。1993年に発足し当初の理事にはJSAS側から十仁のUm先生も選任しましたが、担がれただけで騙されたと悟って2年後に辞めました。Um先生は先日逝去されましたから、また一つの時代が終わりました。

非形成外科側、所謂美容整形屋上がりの団体は、日本美容研究会という財団法人を十仁が主宰していて、日本美容外科学会JSASはその傘下にある形です。共に日本医学会から加入を認められないから、法人格だけ持っていようとしています。日本美容医療協会に対抗してNPO日本美容外科医師会を発足したのは1997年でした。父も会長をした事はありT先生のクーデターで降ろされました。

とにかく上記4団体に父は頚を突っ込みました。理事に選任されたり、学会開催もしました。私も連れだって首を突っ込んできました。しかし形成外科側が策を弄して、政治力と権威を振りかざして伸張して来ました。現在医療法上の広告規制が緩和され、学会認定専門医を広告出来る様になりました。形成外科学会は日本医学会に加入して、厚労省に公認されていますから広告出来ます。よく見かけますよね。二つの日本美容外科学会認定専門医は、上に述べた如く公認されていないのですが、無視して広告しているクリニックがほとんどです。何より、将来は厚労省に公認されないと標榜が出来なくなる方向性にあります。JSAPSは手を打っていますが、JSASは手をこまねいています。将来は、例えばS美容外科がSクリニックと名乗らなければならない時代が来るかも知れません。それでは父の夢が潰える事になるのですが、私は形成外科医歴30年&美容外科医歴30年なので、それも有りかなと考えます。

日本美容外科医師会でのクーデター事件も、日本美容医療協会へのスタンスシフトが原因として大きかったのです。クーデター事件の件は前に記しましたが、もう一度触れます。言わずと知れたT先生が首謀者です。簡単に説明すると、形成外科医と非形成外科医の戦闘に巻き込まれたのですが、両側に顔が利く父が矢面に立たされたのです。きっかけはT先生の脱税です。2001年の当時は話題沸騰でした。そのT先生が医業停止期間に広告をしたので、日本美容医療協会会長名で告発しました。するとT先生は、広告は本の広告であるから違法性はないと言い逃れ、さらに告発した日本美容医療協会を名誉毀損で、逆に民事訴追して数十万円取っていきました。そして、父がこの策略に加担したと糾弾し、日本美容外科医師会長だった父を更迭しました。私も脱会はしませんでしたが、その後参加していません。その後も父と私、T先生とご子息のT.M.先生はJSAPSでは毎年話しました。父は怒りながらも、「とにかく合同が夢だ。日本美容外科学会がに本医学会に加入して世間から認められるのが夢だ。」と言い続けました。その後の団体での行動はまた次会以降に書きます。

ところで、Tクリニックのご子息はこの頃はまだ斯界にデビューしていません。でも今や親子で二股です。彼は今でも、表に出るのは好きでなく、C.M.は仕方なく出て(ルックス的に使える。)いるし、ブログとFBは医療的な情報発信の場と捉えている様です。この後T先生はこの世界でさらに暗躍しますが、ご子息のT.M.先生をデビューさせます。彼も形成外科医局に所属して研鑽を重ねました。父の代が非形成外科医で子の代が形成外科出身なのは私と同類です。ただし親の資本力が10倍以上の差が有るし、医療法人と病院を持っているので土台が違い、表に出て来てからは飛ぶ鳥を落とす勢いで売り出され羽ばたきます。

今から10年くらい前のJSAPSの懇親会で、父と私はT先生にご子息のT.M.先生を紹介されました。私は問いました「父は美容整形上がりの非形成外科医の美容外科医オンリーで30年以上。私は形成外科に入局して15年、美容外科は父のところで20年研鑽して来た。T先生は非形成外科医なだけでなく、敵視されているが、君(T.幹也先生)は形成外科に何年在籍したの?、お父さんの下で美容外科も修練して来たんだよね?。」彼は「その通りです。私と森川(一彦)先生は似た者ですね。出自が似ていてベースを同じくしますね。」私は当然彼の事が可愛くなりました。同時に、`なのに彼はおとなしいのに、よくT先生についていけるな?`と可哀想に想い、さらに`でも多分T先生のことだから、幹也君を上手に売り出し、継承への道を引くだろうな?`とうらやましく想いました。人前で想いに耽っていた失礼な私に、彼は手招きする様に二人で座を外して言いました。「でも僕は父のやり方が余り好きでないのですよ。それに僕は余り表に出るのが好きでない。」私にもそう見えました。でも考てみれば、T先生にはご子息が数名居て長男のM.君を売り出すのは当然ですが、とにかく継承していけばいいだけです。M.君は順番からして売り出されたのと、形成外科の修練を重ねたからJSAPS側にも顔が出せるからです。その意味では父が私に課した付き合いと同じです。毎年JSAPSや形成外科学会で一人でポツンと座って、真面目に勉強している彼を見かけます。私が近づき目が合うと、ぺこっと会釈します。時には私から近づき、「お父さんは(私の父は他界した。)来ているの?、一緒じゃないの?。」と訊くと、彼はニコッとして「僕は勉強に来ているので・・」と言ってまた画面と演者の方を向きます。でも、彼も真面目な医師なのでその際時折、「これ違うと思いません?、先生どう思われます?。」とか小声で話しかけて来ます。まるで私と父が、父子でいつも学会場でコチョコチョ話ししていた時の様に、仲良く勉強することがありました。

この場面で一度止めます。