2017 . 9 . 9

美容医療の神髄-歴史秘話個人編-美容整形屋と美容形成外科医「番外編4:美容外科医の家族は辛いよ!」

なんでこんな事書いているのか思い返してみれば、何より母が亡くなったからです。母の生き様を書いて、追悼したいのです。同時にここに吐き出してしまえば、母は嫌な想いを天に持って行かなくて済むし、私も今からは母の為に悩まなくても済むと想います。これでおしまいに出来るからです。ただしもう一人の登場者は死んでいない様なので、まだ終局してはいません。

話しは私の中学生時から高校生の頃に続きます。その後も私は銀座美容整形医院を定期的に訪れました。母は金持ってくるんだから、嫌がりながらも反対はしませんでした。家族の経済力のためですから、当然です。なんか逆に、私は運び屋みたいで利用されている様な気もしました。数回後には一部振込にしてもらいました。でも小遣い分は手渡しでした。

しかし、そこには敵が居る訳です。事務主任は当然そこに居ます。それだけでなく、父のマンションに同居して暮らしていました。もっとも母に言わせると「飯炊き女に過ぎない。」と蔑んでいます。だから、私が父の所に行って、主任とも会うのを妨害しません。あくまでも前から知っている事務主任ですから。でも或る時、何故だったか覚えていませんが、マンションを訪れる事になりました。そのマンションはリキマンション、知る人ぞ知る力道山が作った赤坂の高級マンションでした。母もその所在は知っていました。良く覚えてはいませんが事務所も兼ねていて、母は専従者の振りをする為に何度か出入りしていたのです。私も小学生時に行った事がありました。

でもやはり、中学生時に行く事が発覚すると、母は烈火の如く怒りました。「止めなさい!」でも、行く事になると、今度は「行ったら絶対に何かを口にしてはならないよ!、あの女はカズが邪魔な筈だから、殺されるに違いない!」こう書くと母は気が触れた様に見て取れますが、当時出て行ったばかりの父が賄い婦とは認識していたとしても、主任と同居している場に私が行くのは、とても辛い場面だったのでしょう。私は帰ってから「お茶は飲んだけど食べなかったよ。」と告げました。母は「良かった。もう二度と行くんじゃありませんよ。」と念を押しました。多分その後、ゴルフに同行する様になる数年後までは、マンションを訪れなかったと記憶しています。

母にとって、父はやはり、生活を支えるだけでも最高に意味の有る存在です。これが家族というものです。でも良く云う様に`子はかすがい`です。私や弟が居る限り、父と母は繫がっています。だからこそまた、私達兄弟が生きていなければならず、母は自分の存在を私達に託しているからです。もちろん経済的な繫がりは、私が運び屋をするだけです。

ただし私は子ですから、父に対しても母に対しても同等に愛情があります。日常生活は母と弟と父の母つまり祖母と暮らしますが、父との短い時間も楽しい時間でした。父は帰りが遅いので、平日はまず顔も見ませんが、幼少時から毎日曜日に遊んでくれましたし、キャッチボールは半分真剣勝負で、「ライオンの父親が子を千尋の谷に突き落とす例えの様でしたが、上手くできれば褒めてくれる。巨人の星(旧い!、若い人は知らないよね?)状態でした。中等科に進学してから、私がクラブ(何故かラグビー部)に入ったら、私は日曜日も試合とかで費やす様になり、残念ながら父と遊んであげられなくなりました。ゴメンな気持ちだったのを思い出しました。

そういえば私が成人後子供がたくさん出来て、毎週のように公園なんか一緒に遊んでいた際に、たまに父が登場して割入ってくることがありました。その際父が「子供とは一緒に遊んであげるんじゃあなくて、遊んでもらう気持ちでなければ、却ってだんだん離れていくよ。俺の経験からだ。」って私を山車にして言いました。その時思い出しました。私が父と遊ばなくなった頃に、父はゴルフにのめり込み家を顧みなくなり、その後父は帰らなくなったのかも?。

だからかとは言い切れませんが、私も高校卒業の頃からゴルフにのめりこんでいましたが、二人目の子供が産まれたころから(女の子で可愛い!)、きっぱりゴルフバッグに封印しました。その後3人授かりましたから、つい最近まで毎日曜日は子供と共に関わっていました。

そういえば末っ子の男子が中学に入って、私が中等科に進学したときと同じ年頃です。私と父のときの様に父子の関係にすきま風が吹き始める年頃です。でも彼はテニス部に入りました。4番目の次女は小学校に入る前に突然テニスをしたいと言い出したので、近くのテニススクールに行かせたら没頭しました。7歳上の姉を見てか末っ子は小学校に入るや同じテニススクールに通いました。その頃から我が家のみんながテニスで繋がりました。3番目の次男は中学生時にテニス部で活躍しましたし、長男も触ります。月に一回以上の機会が家族の楽しみでは有ります。

だから私は、家族に遊んでもらっています。でも次第に機会は減ってきました。何か物品を求めて親にすり寄ってくるのは子の務めです。その際に話し合いながら繋がりを保って行くのも家族の楽しみです。更に事が有れば家族は連携するしか無いのです。今回母が亡くなって対処する人は家族だけでした。その際我が子達と、配偶者は出来る限り対応しました。亡き母が子や孫にかける愛情が反射して家族が繋がりを強めました。末っ子があんなに頼りなるとは思いませんでした。

これもなき母と父の孫子に対する愛情が伝わったのでしょう。そこでいい物を見つけました。今私の前には二人の遺影が並んでいます。父が亡くなってから母が位牌と遺影を立てて毎日拝んでいました。母が亡くなって遺品を整理する際に持って来て、母の遺影も立てて我が家のリビングに掛けています(仏壇は無い)。家族みんなで線香を絶やさない様にしています。そこで思いついたので、遺影を載せます。その画像の説明は次回以降として、まだまだ美容外科医の家族のストーリーは続けます。

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