という訳で、前回9年目から美容外科でのアルバイトに勢を出す事になりました。
その上で北里研究所病院での父と私で二代に渉る在籍の話をちょっとして、ついでに北里研究所の仕事(アルバイト)の方針を父子で笑う話。その後のJSAPSとJSASでの二人の行動について記していくつもりです。
次いで、JSASで父が会長するのは1996年=平成8年=私は10年生(北研2年目)と1999年=平成11年=私は13年生(大学にて研究員)ですが、私は平成8年には加入だけします。11年には発表もします。そのいきさつはまたとします。また日本美容外科医師会は1997年平成9年に発足しました。その後の変遷も後段に廻します。
前回9年目10年目の北里研究所病院に出向中のアルバイトの話で盛り上がりましたが、結局主なバイトはコムロで落ち着きました。原則的に私は木曜日を研究日とされ、金曜日も午後は手術や外来診療がないので実質オフです。土曜日は午前の外来診療を二人で隔週担当しますから、隔週でオフとなります。基本的に週のうち2日半はバイトに出られるのです。コムロには週のうち一日半行きます。土曜は他の出張バイトに行きます。それは後で説明します。
コムロに最初に行った際に歓迎されたのは前回述べました。そこで気がついたのですが、何しろ形成外科医が勢揃いでした。コムロ先生に自慢げに、いきなりシフト表を見せられました。当時(約20年前)の同年代の形成外科医で美容外科診療に肯定的で積極的な医師が集まっていました。何度も述べてきましたが、当時はまだ形成外科医局に所属している医師は(形成外科医は病院でないと診療出来ないので、大多数が大学や派遣病院に所属している。)非形成外科系の美容外科院、つまりチェーン店にバイトに行くなんて滅相もないムードがありました。組織の求心力の維持の為と言う建前でもありますが、違法広告で患者を集めるビジネスを展開しているチェーン店を苦々しく感じ、更にいえば、美容外科の正統的な発展を妨げる輩だとして憎んでいた程でした。
だけど美容外科診療が好きな形成外科医はいましたし、美容外科をしたくて形成外科に入局した者も少なからずいたようです。私は当然ながらそうです。美容外科は患者さん、それも多くは女性に慶ばれる。こんな楽しい仕事はないからですし、それでそれなりのペイがあるならやりがいがあるに決まっています。確かに真面目に取り組むと難しい医学ですが、悪い事をしているのではなく、善い事をしていると考えれば、日々研鑽するモチベーションも上がるというものです。敢えて強調すると、私は物心ついた頃から、美容外科(当時は美容整形)に接していました。父は言いました。「女性の容貌は多様だが、よく見て頭に入れておく。そしてそれを評価出来るようにする事が美的センスを磨くコツだよ。」私はいつからか(高校生の頃か?)電車の中でも女性の顔貌をチラ見し評価したり、自動車運転中でも横断歩道に立っている女性達に見とれたりする癖がついていました。結婚してからも直らない為、妻によく諌められました。危ないし!。
とにかく当時形成外科医がコムロには何人も務めていました。その後の形成外科医の美容外科での開業の先駆けとなる二つのチェーン店を作る事になる医師が修行していたのです。リッツとベリテですが、開業メンバーの大部分は当時一緒にコムロでバイトしていました。今や彼等は形成外科出身の美容外科医の中では最高レベルの診療をしています。私とは今でも仲良しです。更に言えば、父の事も尊敬していました。後年(父が存命中の晩年)父を講師として勉強会した事もあり、今でも彼等に会うと、その時の事を面白がって話題にされます。
この出会いは、美容外科の歴史にとって大きな節目を示唆する時だったと思いますので、もう一度歴史をたどってみます。戦後から高度成長期の非形成外科の美容整形の時代は、父や十仁が牽引しました。昭和30年代に形成外科を欧米で学んだ後に、本邦で診療を始めた医師が出始め、少し置いてから彼等のうち一部が美容外科で開業しました。いわゆる警察病院系と、一部の大学(主に東大、昭和、後に北里)からも開業しました。昭和53年の美容外科標榜後、非形成外科医がビジネス的チェーン店を開設し始めました。その後は押されっぱなしでした。そりゃそうです、医療も資本主義の法則には勝てません。平成に入る頃、形成外科医が美容外科のビジネスを糾弾しましたが、彼等は「べつに!」って感じでしたし、逆に形成外科医は美容外科尾の者を蔑視する事で溜飲を下げようとしたまででした。平成も10年経て、コムロに形成外科出身の美容外科医が蟻の様に集まって来たのですが、私もそこに顔を突っ込めて楽しかった訳です。
実際の診療については次回簡単に説明します。他のテーマとして、もう一つのバイトと北里の方針。父とそれを笑う話から次回へ繋ぎます。