この症例は、男性で奥二重を望んでいました。上図の如く術前を診ると、かろうじて瞼縁が見えていて、皮膚が被さっているのを代償する為に前頭筋にが収縮していて、眉毛が挙がっています。挙筋筋力は有るのに皮膚が邪魔なのです。
1回目に切らない眼瞼下垂症手術=黒目整形=NILT法を施行しましたが、右の内側が不足なので、追加しました。同時に、外側の重瞼を強化しました。下図は今回の術後経過です。前頭筋の収縮が解消し、眉毛が戻りました。閉瞼時と同じ位置です。
二重まぶたとは、正面視(第一眼位)で瞼縁より皮膚が上にある形態で皮膚性眼瞼下垂が無いため、代償性の前頭筋収縮が無い状態です。奥二重とは、瞼縁と皮膚がほぼ同高の状態を言います。一重瞼は第一眼
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カテゴリー別アーカイブ: 美学
片側の黒目整形で合わせたい。経過を追いましょうⅤ→完成でしょ?。→そうは問屋が卸さない!。
先週も提示した症例です。1週間後の撮影の為に来院されたので、診察もしました。
もう一度、当初からの画像を並べてみます。
1回目の術前です。左の後天性腱膜性眼瞼下垂が見られます。
1回目の術直後です。なんとか開きました。問題点は、重瞼のカーブと、瞼縁のカーブです。
2週間後に2回目手術。中央に挙筋強化を追加しました。瞼縁のカーブは綺麗に出来ました。むしろ開瞼はオーバーです。
さらに2週間診て、開瞼は丁度いいのですが、重瞼がやや広いかも知れません。それに内側の点が強過ぎます。
3回目に手術して、内側の重瞼を弱めました。術直後ですから、腫脹により、開瞼が弱化した様に診られます。重瞼のカーブは綺麗です。
1週間後の撮影時、開瞼が低下して見えますが、容認して頂
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美容医療の神髄31-歴史的経緯第31話- ”口頭伝承から、自分史話へ”その8
3年次、4年次と九州へのドサ周りの2年間を終えて、関東に帰ることになりました。5年次は北里大学病院での通常病棟勤務が5か月と救命救急センターローテーションが5か月の予定です。相模原市内にアパートを借りました。学生時代にも住んでいた近くで、米軍基地のすぐそばです。
このころから、銀座美容外科に行く機会が増え、美容外科の世界に復帰した感じです。3か月に1回程度は、父とゴルフする機会がありました。また、長男と妻を連れて行けば喜ぶので、年数回は銀座美容外科医院を訪問しました。話の内容は次回以降に繋がりますので、5&6年次について説明していきます。1991年6月から1993年3月です。
現在の臨床研修制度では、卒後2年間の研修指定病院でのローテーションが義務づけられていますから、3年次から
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美容医療の神髄30-歴史的経緯第30話- ”口頭伝承から、自分史話へ”その7
4年次は、熊本の西日本病院という施設で一般病院での形成外科研修を受けることになりました。長くなったので改頁しました。
戦後から昭和50年頃までは、九州には医学部が無い県が有りました。ですからいまでも九州全域で見て半数以上の医師が九大出身です。医療過疎の裏返しで、医師が余っているのか、九州では医療機関の病床数が人口比では上位の県が多く、熊本県も然りです。何が言いたいのかと言いますと、九州の医療は質より量だということです。経済的格差が大きい、だから高齢者の長期入院が多い。だからベッド数は余り有るのに、病院はやっていける。何しろ土地が広くて地価が安いから、でっかい病院をどこにでも作れる。これが量的医療です。質はというと、医師はやはり多くないので、高度機能でないのが当たり前なのでそれでもやって
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片側の黒目整形で合わせたい。経過を追いましょうⅢ。
本症例は、片側の眼瞼下垂症です。眼瞼下垂症に対する治療を受けていないために、左右差が目立って来たということです。開瞼に左右差があれば、見た目の重瞼の形も左右差を呈することになる解り易い症例です。そこで予定通り、術後の短期経時的変化を追ってきました。術直後、術後1週間、術後2週間と比較して下さい。
症例は38歳女性。挙筋機能(挙筋収縮距離+最大瞼縁活動距離)は両側12㎜と左右差が無いのに、同じ力で開く=挙筋を収縮すると、力が伝わらない為に瞼縁の挙がり具合に左右差を呈する状態です。腱膜性眼瞼下垂です。後天性で、原因は物理的損傷と考えられます。
上左図が術前、上右図が術直後です。
上左図が術後1週間、上右図が術後2週間です。
術直後の時点では、内側が強すぎる
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