しばらく番外編が続いていました。美容外科医は辛いよ!のキーワードは”整形ゴロ”の暗躍です。3年以上の年月がありますから、話題に欠きませんが、やばい話もあります。しかも当初から波乱含みです。
A美容外科グループには、大分院の他に浜松院と松本院と旭川院がありました。私が大分院を開設したのは医師歴16年次は平成14年、2002年でした。大分院は数十年来有名な美容外科医が持っていたものを私が行く前年に譲り受けたのですが、その件は以前に説明しました。松本も前年に開設したのですが、私は東京から行けるの隔月に一回ほど行きました。信州大学も訪問した話は長々と書きました。浜松院はA美容外科グループの本部事務所が岡崎市にあるために近くの中都市を狙って出したのと、開設者として皮膚科上がりの美容形成外科もどき
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カテゴリー別アーカイブ: 美容医療
眼瞼下垂手術切開法と目頭切開Z-形成法:やはりこの手術が最良の結果をもたらします。
いきなり術前と術後1週間の画像を載せます。比較するも何も、違う質の目元になりました。
姉妹で手術を受けた患者さん。「妹さんがあまりにも良くできたのでプレッシャーがかかります。」と正直に告げるも、「じゃあ同じ様にきれいにして下さいな!」と楽しそうな患者さん。要するに信頼されているのだと思いました。こういう相手には気合いが入ります。
まだまだいろいろな形態的機能的な変遷は予想されます。珍しく血腫が存在しましたので、術後2週間までは消えないでしょう。こうして経過が遷延する例もあります。気合が入りすぎて開瞼が強化され過ぎた感はありましたが、予定通り揃ってきました。患者さんも「ちゃんと合ってきましたよね。」と余裕の表情です。人間の身体の経過には絶対はありません。
ですから、定
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美容医療の神髄-歴史秘話個人編-美容整形屋と美容形成外科医「番外編2:美容外科医の家族も辛いよ!」
母と父の関係を美容整形屋と照らし合わせれば、何と言ってもキーワードは「美容整形屋に女は憑き物!」です。
父は昭和2年産まれで、昭和28年に慶応大学医学部を卒業し、医局は同大学第二外科でした。そこは当時先端領域である胸部外科でした。直ちに北里研究所病院に出向しました。皆さん知っての通り北里柴三郎は、感染症医療に於ける本邦での最高権威者で、病院は研究所に付属し、最新の医療を推進していました。当時もっとも罹患者が多く、しかも慢性疾患のため戦後の国民国家の再興を妨げていたのは結核で、北里研究所病院も結核サナトリウムの様相を呈していました。
父は福島県猪苗代町の産まれで、祖父は医師でしたが、祖母は未婚のまま父を連れて東京に出て来てしまいました。祖母は教師でしたが、音楽教師を目指して芸大の前
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美容医療の神髄-歴史秘話第101話-”口頭伝承”:美容整形屋と美容形成外科医”その76”「地方都市19:美容外科医は辛いよ!」
美容外科医は辛いよ!とはどうゆう意味でしょうか?。これから延々と書くエピソードを読みましょう。キーワードは”整形ゴロ”の暗躍です。
時は、私が医師16年目、平成14年、2002年にA美容外科を開設していた前後の話題でした。A美容外科グループの話題が地方中都市チェーン展開の話題に移りました。三院あるうちの一つ、松本院の話を始めたら信州大学形成外科を訪問した際の話題に移り、眼瞼下垂診療の中心人物である松尾教授との面談について書き始めたら、松尾教授の眼瞼下垂症診療における概念の解説に終始し始めました。これ迄に無く、話題がアッチコッチに跳んでしまい、計5回も費やしました。
今回から、やっと美容外科医の話しに戻ります。A美容外科は地方3院でも診療しますが、かいつまんで述べます。
A美
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美容医療の神髄-歴史秘話第100話-”口頭伝承”:美容整形屋と美容形成外科医”その75”「地方都市18:美容外科医は辛いよ!」
前回予告しました様に記念すべき(別にぃ~と云われたらそれまでですが!)100話です。そこで、これ迄の流れを見返してみて今後の流れを予告します。ブログはこの時点で私の医師歴は1987年=昭和62年からで16年次。今は2017年=平成29年ですから現在医師歴は30年次を終えたところですから、やっと半分まで来ました。という事は後100回は書けそうです。
医師になる前からの父、銀座美容外科医院(私の幼少時は銀座東一診療所から銀座整形となった。)院長である森川昭彦との想い出または教育も書き加えて来ました。何故私が美容外科医を志したのかの一端が垣間見えると思います。思い返してみると、学生時代から美容外科医への道を引かれて来ました。それどころか父は、私が物心つく頃から、美容整形医の崇高な哲を、私に植
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