2017 . 9 . 14

美容医療の神髄-歴史秘話個人編-美容整形屋と美容形成外科医「番外編:美容外科医の家族は辛いよ!5」

追悼文のつもりでは無かったのですが、周囲が、個人の話題をそれもあまりいい話でないのに暴露していいのか?。と疑問を投げかけられました。登場人物の中で、父と母は故人となりました。故人情報は私が管理する情報ですし、他の登場人物は私も含めて存命ですが、今ここで書き連ねておけば故人の煩悩を吐き出せて、魂を安らいで天に召すことが出来るだろうと思います。まだ納骨していませんから、母の魂に聴いてみました。近々納骨します。

リビングにある遺影の画像を盗み撮って、前回載せました。父の分は広告等に使うためにカメラマン(雑誌社かと記憶しています。)が撮ったので上手く映っています。享年79歳でしたが、撮影は5年以上前でした。それにしても若作りに映っています。ちょび髭も効いていますし、髪はもちろん乗せています。顔の色つやがいいのは画像処理とメイクの賜物です。家にも他に画像はありますが、これが一番魅せられます。ちなみに髪は、私が幼少時、つまり父が30歳代にはもうO型でした。関係ないけれど、血液型もO型でした。仕事中はもちろん、家族と一緒に出掛ける際もでも帽子(当時流行っていた。)を被っていました。家で見た私が「カツラあ~!」と言ったら、母にたしなめられ、父は「ヘアーピースと言うんだよ!!」と念を押されたのを覚えています。

一応私は血液型はA型で髪はO型です。さすがに気を付けていましたから、40歳代にはありました。今は流行りの染色を使えばOKです。母の家系の兄弟もみなM+O型ですから、どちらからも遺伝した筈ですが、M型ではないので私は父からの遺伝です。遺伝子は変えられません。美容外科医の遺伝子もです。

母の遺影の画像はマイナンバーカードから拡大しましたから、解像度が低いのですが、巧く映っています。私はマイナンバーカードを持っていませんが、プロが撮影するそうで、かなり脚色修正出来るようです。母は享年81歳ですが、カードの作成時期からして2年以内でしょう。とても80歳とは見えません。それはそうです。母は私の初等科生時に2回フェイスリフトを受けています。もちろん父が術者です。多くのマスコミに取り上げられて患者が殺到しました。今考えると内助の功を身で示したのですね。しかし、それから50年近く経てもリフトの効果は持続しています。5年若返る手術を二回受けて、10年分の若さが残存しています。実は父は上手かったのだと感心しました。いやもっと若く見えますが、これは画像が粗いためです。本当はしわだらけでした。

話を私の高校生時に戻して、3年生時には医学部に行くかを話し合います。当時も、銀座美容外科医院にたまに行っていましたが、いざ医学部に入るかどうかは家族みんなの意思統一が必要です。

予め父とは打ち合わせましたが、母は一度話し合うことを求め、久しぶりに父が家で話し合うことになりました。これも予め父と私で打ち合わせたのかと思いますが、いきなり私が「大学医学部に入りたいのです。できれば銀座美容外科医院も継いでいきたいと思います。」と芝居じみて切り出して、母は「一彦が頼んでいるし、私からもお願いします。日常は私が援助していきます。」ということで決まりました。後で私は母に「これでお互い安泰だ。あなたの将来も安心でしょう。」と偉そうに言ったのを覚えています。寂しい最期を迎えさせたのが残念ですが、私の子つまり母の孫と何かと遊ばせてあげられたので、孝行できたと思います。

医学部の話しからは歴史のブログに戻しますが、家族の話題としては私は銀座美容外科医院に通ううちにゴルフのめりこみます。父も歓びました。前回書いた様に、父が帰らなくなったきっかけの一つはゴルフが関係しています。父が出て行く際にゴルフクラブを敵の様にボキボキ折りました。ですから母は、私がゴルフを始めるのを反対するのではないかと感じていましたが、杞憂でした。むしろ、父と私が繫がるのを喜んでいました。ある時には「いつかは親父さん(父の事)に勝てる様にね!」と私を励ましました。一種の敵討ちみたいな感情も半分有ったのでしょう。

私がゴルフを始めたのは浪人中だったと思います。実はその頃、先ず自動車の免許も取りました。次いで自動車を買ってもらう券が発生しました。当時母は外車の中古車を乗っていて、私も始終借りました。その車で銀座を訪れて、父と交渉しました。遂に私も買ってもらう事ができましたが、その交換条件みたいに父から「じゃあゴルフも行けるなあ?!。買ってやるから練習しろ!。何か月かして自信が付いたらコースへ行こうぜ!」銀座美容外科医院の近くに、父が御用達にする懇意にしていた小さなゴルフ用品店が有りました。今では所謂ロードサイドのチェーン店やスポーツ用品チェーン店に押されて、街に小さなゴルフ用品店は見かけなくなりました。でも逆に云えばこれはバブル期の景気でゴルフが流行していたからゴルフ屋が林立していたのです。

いきなり父に、診療をほっぽらかして近くのその店に連れて行かれて、「これ買ってやる。」って嬉しそうにします。そんな事言っても私は素人ですから判りません。「ちょっと待って、考えるから。」と言ったら父は「じゃあこの人と良く相談してから買え!」とか言ってさすがに仕事に戻りました。私は店長と二人で目を見合わせて「じっくり見てね!」と言われても困るので「じっくり選んで下さい。」とお願いしました。体重を計って身長は自己申告して手を見せて握力も測ってもらって、その結果女性用のクラブを選んでくれました。もちろん私はエエっと思いましたが、店長は「先ずこれで練習した方がいいですよ。もし物足りなくなったらその時に変えればいいのです。それに長いもの(ドライバーやウッド類のこと)はいくらでもいいのが出回りますからみんなちょくちょく変えます。」一時間以上のうちにやっと決めて付け払いで持って帰りました。

確かに他は買い替えましたが、その際のアイアンクラブは15年以上は使いました。でも今から23年前に子供が多くなった頃にゴルフは辞めました。何でこのお題でこの話しになったかと言うと、ゴルフを再開しようと思っているからです。それも我が子達と取り組んでいるのです。考てみると、ゴルフバッグを封印したのは子供達との時間を作りたいからですが、再開するチャンスは子供達と共に出来るからです。美容外科医として忙しくても家族との束の間の楽しい時間です。そう考てみると母と父と子=私の関係を思い出す時、母にも教えてあげたかったと思いました。残念ながらその前に逝ってしまいました。先日遺影に語りかけました。「親父とお袋の間には、ゴルフに関して軋轢があっただろうが、私は我が子=貴女の孫と楽しい時間を持てるよ。」すると、隣に並んだ父の遺影がニコッと微笑んだ様に見えました。母は笑顔で写っています。

その上で私達家族がまた、一つの方向を向いて歩む機会を作ってくれたのは、母の遺してくれた愛情だったのでしょう。人が亡くなると周りが手間と時間を取られます。私はこのところアベノミクスとブログの御陰様で忙しく、何かと家族、特に妻に頼りました。子供達も久し振りに集まります。母の御陰で私もいい時間を過ごせました。そしてこの頃、子供達がゴルフを始めたいと言い出し、しかも私は忌引き休みで、何日か共に行動出来ました。ある日突然私と子供二人でゴルフ練習場に飛んで行きました。そして、私も23年振りにゴルフボールをかっ飛ばしました。子供達ともお互いにコーチングしながら打ちまくって楽しかったです。これも母の御陰でしょう。今後は更に他の家族にも拡げて行きたいと思います。

実は母の遺品整理をしていたら、アルバムや写真がゴソッと出て来ました。でもその中に父と母がカップルで写っているのが沢山あり、嬉しかったです。私の父は美容外科医らしい生き様でしたが、母は影から見ていたのです。だからゴルフも含めて、私と父が同じ道を歩むのを、母は天で喜んでいる事でしょう。

話題を私の大学時代から医師への頃の、母と父の関係の話しに戻して次回が、一段落にしたいと思います。