2013 . 7 . 5

美容医療の神髄Ⅲ-歴史的経緯-

話しがあっちこっちに跳んでしまって混乱させてしまっているかもしれませんが、お許しください。ブログですから、徒然なるままに書きます。

私事、生涯一美容外科医を名乗る森川一彦は、美容外科医である父の下で生を得て54年、医師としては26年に過ぎません。こんな私が歴史を語るのは僭越かもしれませんが、私達親子の経緯も含めて、述べていきます。

日本での形成外科、美容整形の歴史は戦後からといえます。欧米では20世紀の初めからです。その前に現代では、形成外科、美容外科(美容整形)、最近では美容皮膚科、美容内科で対応する美容医療という概念は、いつからあるのでしょう。

三国志には、一重瞼を二重瞼にした女性の記述があります。これまで述べた東アジア人の特徴ですね。これは立派な美容医療です。同時期にはインド式植皮というのもインド大医典に乗っています。つまり形態改善の医療概念は有史以来見られます。形態の良好化を求める、人の心からすれば、当然と言えます。むしろ化粧や、飾りは、石器時代からされてきたわけで、形態の良好化のために自他人になにかを施すのは、人間の文化とともに芽生えた欲求を満たすために、自然と芽生えた行為です。16世紀のイタリアでは、戦闘で鼻を欠損した患者を今でいう皮弁法(有茎植皮)で治したTagliacocciという医師がいて、形成外科的技術の始まりとされています。

20世紀の初め第一次世界大戦において、顔面外傷者が多発したために、英国の外科医Gillesたちが総出で、形態を治す技術を磨いた結果、近代西洋医学において形成外科 Plastic&reconstructive Surgery という概念が確立し始めました。ここまでは、歴史的知識に過ぎません。

美容医療は、形態改善を目的の一つとします。近代医学はギリシャの医学者ヒポクラテスの哲学:「医」は患者の生命維持の補助を第一にする科学であった。確かに医学の第一目標は生命であります。これを第一世代の医療といいましょう。しかしその後、機能の改善を図ることも目的の一つとなります。生命に別条ない外傷や病気で損傷した運動器の修復や、内臓や神経の機能回復も目的の一つとなりました。第二世代の医療としましょう。そこで、形態の改善を目的の一つに加えたのが、先ほどの形成外科です。それまでの戦争では、兵士は生きるか死ぬかの戦いでしたが、第一次世界大戦では、塹壕戦と言って堀のようなところで応戦する戦闘スタイルを使ったため顔面だけの外傷が増えたそうです。生還し戦勝に寄与した、”国家の英雄”の社会復帰を助けるための形態改善ですから、国家的事業として行われたのです。第三世代の医学の黎明です。その後、戦間期には戦傷者は少なくなるので、彼ら形成外科医は、外傷に対する機能及び形態改善を対象とするだけでなく、健常者に対する形態改善をも医療として行い始めたのです。美容外科の萌芽です。外傷患者に対する形態改善のノウハウ:解剖学的構造の知識、生理的知識は、健常者に対する美容を唯一の目的とする医療にとっても、有用なのです。

さて我が国でも、第二次世界大戦前にも、美容医療の端くれが行われていました。ごく一部の耳鼻科医による隆鼻術、眼科医による重瞼術、整形外科医による植皮術などの記録があります。もっとも戦争中はそれどころではない訳で、中断されています。

戦後に日本の美容医療は花開きます。まず、米占領軍により、日本人の戦傷者に対する。形成外科的治療の指導が行われます。米国の形成外科医が多数来日しています。何人かは帰国後日本の事情を論文に書いています。そこには、十仁病院の記事もあります。原爆被害者の医療にも、加害者である、占領米軍が携わり、形成外科的診療の指導をしたようです。

この後の、我が国における美容医療の歴史は複雑です。次回第二話に回させてください。

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