2015 . 8 . 7

美容医療の神髄19-歴史的経緯第19話- ”口頭伝承話”その19

そろそろ北里大学医学部を卒業する時期、昭和61年頃の事ですが、昭和51年の形成外科標榜認可と、昭和53年の美容外科標榜認可から10年近くを経ていました。

当初から、美容整形側JSASと形成外科側JSAPSが対立構造でした。広告宣伝戦略とチェーン店展開方式のJSAS側に対して、その広告の違法性と美容医療の指針作りで対抗するJSAPS側の論理はかみ合う訳がありませんでした。

しかしここで、もう一つの対立軸が発生してきました。開業医とチェーン店の姿勢の違いからの対立です。

元来美容医療は、顔を始めとした元の形が一人一人違うのですから、求める理想形は一つだとしても、改良法は人それぞれな筈です。社会的(=経済的や時間的)制約からしても、方法論は人それぞれでな筈です。ですから、一人一人の患者さんに対して、一人の医師が親身になって医療を行うべきだと思います。顔を見るだけでなく、人を見る。人格の一部として形態を見る事が必要だと思います。父がよく言ってました。「美容外科は社会適応の道具だ。」ですから、美容医療は開業医が適しています。あとで述べますが、今から13年前に北里大学形成外科医局をを退く際に私は、当時の内沼教授に「お前は美容外科に向いている。だから開業しなさい。」と申し付けられました。そう言う意味で、私は開業医としての、美容外科医に誇りを持っています。

ところで、チェーン店形式の執り行う美容医療はオートメーションです。まず広告で呼び、電話で来院を促し、受付サイドがカウンセリングと称してマニュアルに沿って相談を始めます。医師は型通りの治療手術を行うだけです。患者さんに適した治療かどうかには関与しません。そもそも患者さんの側も、広告の方法が最良の方法だと思って受診するのです。何も知らない患者が、この流れで治療に及ぶので、適切な治療かどうかは関係ないのです。そもそも、病気の治療なら、この患者はこういう治療でなら何パーセントの確率で治癒できるとのエビデンス;根拠の下に治療をすれば、正しい医療だといえますが、美容医療では、一人一人の患者さんに対して、よりよい方法を模索してあげなければならないと思います。チェーン店形式で、広告費をペイするためにそんな面倒な手順を踏んでいられません。また彼等は、どういう出自でしょうか?。チェーン店の開設者の多くは、美容整形十仁出身です。後にはTクリニックからも輩出されます。彼等はまあまあそれなりに美容医療の経験があります。ところがチェーン店ですから、支院を出す際に医師が必要ですが誰を?。まず医療雑誌で募集しています。医者なら誰でもいいからです。卒後1年生でもいいし、昨日まで違う科目(外科系でなく、内科系や麻酔科でも)を診療していた医師でも免許があればいい。こんな姿勢です。実は私、その頃冷やかしで電話してみましたが、本当にそういう姿勢でした。

まあそれはいいとして、チェーン店の跋扈が始まると、JSAS側の開業医もJSAPS側の医師も、苦虫をつぶし、そこここで集まり始めました。父は当時から、二つの日本美容外科学会に所属して、発起会員扱いでした。そこで、両方の学会員との情報交換を出来ました。特に開業医の中には、ベテランから、中堅までが多く、懇意にしていた者が多かったのです。

そこで、臨形です。日本臨床形成外科医会の略ですが、字面の通りなら、JSAPS側の団体です。でも、臨床と付いているからには、開業医が中心メンバーなのです。それまでは、JSAS側もJSAPS側も開業医が中心でした。そこで父も臨形のメンバーでしたが、私を同行させたのです。そこには、JSASの会員もいました。十仁の梅沢院長が参加していました。他にもJSASの会員が数名参加していました。「チェーン店が多くなって困ったなあ!」とか、「でも、一般人に対しての広告啓蒙になっていいのかも?」とか、「でも、内容は酷いもんだぜ、うちにも術後に治して欲しいってよく来るよ!】とか喧々諤々の集まりでした。

私はまだ学生でしたが、もう北里大学病院形成外科への入局が決まっていましたから、臨形に溶け込んで、ゴルフにも参加して、下っ端の働きもしたものでした。そこには、同学年の学生もいました。元十仁で渋谷で開業していた恵先生の子息で、杏林大医学部卒後に入局予定だったと思います。いつかは一緒に美容外科を引っ張っていこうな!なんて、言い合いました。

臨形には当然入会しました。父の他界に当たっては私に、会報に邂逅記を書かせてもらいました。それまでの美容外科医としての父の奮闘を書いていると涙が止まらなかったのを思い出しました。

それでは時計を戻して、次回は卒業時からの歴史口承話を進めます。