2015 . 7 . 17

美容医療の神髄15-歴史的経緯第15話- ”口頭伝承話”その15

私が北里大学医学部を卒業するのは昭和61年ですが、昭和53年に美容外科が標榜科目となってからの数年で、美容外科界の情勢が変わっていきました。

1、美容外科が標榜科目となったので、雑誌を始めとして宣伝広告が大手を振って行われる様になった。2、宣伝広告を全国に出すなら、東京を始めとした中央で一開業医でいるより、地方に支院を作り受け皿とし、売り上げを増やしたほうがプラスな訳で、チェーン店が林立した。3、形成外科系で美容外科診療をする開業医は、一人開業医がほとんどだったが、徐々に増えていった。4、形成外科を研修していない美容整形時代からの開業医でチェーン店化しなかった開業医もかなり残った。もちろん父はこの中の一人です。

という訳で、前回二つの美容外科学会の話をしましたが、形成系=大学系=大森系のJSAPSと、非形成外科系=美容整形からの開業医=十仁系のJSASの二つのグループの中でも、違うスタイル&スタンスのグループが存在することになっていきます。一人開業医とチェーン店系です。

正確な年月は調べようが無くなっていますが、チェーン店の嚆矢は実は十仁病院です。昭和61年には7店舗ありました。その話は後ほど再掲することになるのですが、もっとも十仁病院はあくまで病院ですから、新橋が本院で、支店は名前を使っているだけのフランチャイズ形式でした。医師も関係者が行っていました。

有名なTクリニックは、少なくとも少数医師が行き来する直営店の展開を始めた嚆矢です。T先生は名古屋の病院開業医の子息で、昭和44年に昭和医大を卒業した後、当時まだ形成外科が講座として独立していなかった際に、後に形成外科教授になるO先生に学びながら、整形外科(形成外科は整形外科の中の診療班として組織されていた。)に入局した後に、形成外科が講座になる前に形成外科が標榜科目となる昭和51年に開業したようです。昭和53年に美容外科が標榜科目になると、テレビ出演を開始し、広告宣伝活動に力を注ぎ始めます。翌年には大阪に支院を開設、56年には東京赤坂にも支院を開設していきます。当初から、医師はT先生一人が新幹線で行き来して、同日に何院でも手術します。父が新幹線整形と呼んだことは、以前に紹介しましたよね。それはそれとして、他にも医師を置いています。昭和医大出身の医師を次々アルバイトで喚びます。O教授も手伝っていました。有名なO先生の成書というよりは形成外科診療のバイブル”形成外科手術書”の中の美容外科の章に載っているのは、Tクリニックでの症例が大部分だそうです。T先生が言ってました。そもそもO先生は昭和51年の標榜獲得時の日本形成外科学会の理事長で、「形成外科は美容をしない。」と言い放ったくせに、Tクリニックでバイトしていたという訳の解らない大先生です。いずれにしても、そこは上記1と2と3をミックスしたうまいやり方です。そして宣伝合戦の先鞭といえます。かといって、院内で縁もゆかりもない医師を雇って、育ててというような粗製濫造な美容外科チェーン店ではなかったのが、まだ救いです。

このようにチェーン展開が進んでいくと、そこから独立しての新たなチェーン展開をもくろむ医師が多発し始めました。J病院は常時数名の医師を雇っていましたが、昭和60年頃に数名が入れ替わりました。6人程の医師が新たに入職しましたが、2年後から一人一人と開業していきました。昭和63年に独立開業したのがS美容外科です。J病院での研修は2年だけです。一説によると、鹿児島の素封家出身で経済的余裕があったようで、次々と支院を開設していきました。現在50院以上あります。医師は全くの素人も新規で雇います。医師会の雑誌である”医事新報”に年俸2〜4000万円の求人広告を毎月掲載していました。要するになんでもかんでも医者なら、美容外科医に仕立て上げちゃおうという方針です。もちろん宣伝合戦にも積極的に参入しました。一時は広告費が売り上げの半分にもなったそうです。

J病院の同年代の6人(実は私も同年代)のうち、二人は中央クリニックというグループを作りました。二人ですからフランチャイズ形式を取り、さらに直営で増やしていきました。私もバイトに行ったことがあります。さらに残りのうち二人は都心で開業しました。J病院に卒直後就職し、数年研修した後にチェーン店形式で独立していった医師が、この時代の美容整形を隆盛させたのは確かです。折しもバブルのはじける前後ですから、まず景気のいい頃にJ病院である程度稼いで、その勢いと資金を利用して開業したのが昭和の最後の頃の形態。バブルがはじけてからは、医療界も不景気になり就職口が減ったために、初任医師を雇い易くなったのがその後の粗製濫造化の走りです。

もう一店、5年前に閉めたKクリニックは、一時は最大のチェーン店になったグループでした。またその後Tクリニックからも、チェーン店が産まれます。さらにそこからの独立も生じます。

きりがない話なので一度止めます。次回Kクリニックの話から再開しますが、出揃ったところで、チェーン店の形式についても説明しましょう。この頃私も医師となりますから、父である銀座美容外科医院の森川昭彦との関係性の話しも再開します。もちろん、この話しはJSAPSとJSASの対立の話しにも繫がります