戦後日本の美容医療の先行者は、もちろん十仁病院でした。十仁医院は戦前からあり。先代(現在の院長:梅沢文彦の父)の梅沢文雄医師は。上野で開業していました。美容医療というより、男性器治療から入ったようです。戦後新橋で再建した十仁病院は、美容整形を前面に打ち出しました。戦後米軍とともに、医師団も日本に視察、医療指導のため、来日します。ある有名な形成外科医は、日本でのPlastic Surgery は十仁が最高峰だと論文に記しています。
当時はまだGHQの占領下で、都心にも米兵がゴロゴロいた訳で、経済的に欠乏していた日本人女性の中には、米兵にぶら下がって食べさせてもらう者たちがいました。そこで、米兵に相手にしてもらうためには、「バターくさい容姿=外人風の顔。」にする方が優位なのでした。GHQ本部は日比谷にありますから、新橋の目と鼻の先です。銀座のクラブ等で営業活動すれば、美容整形を望む女性は多くいた訳でした。さらに昭和25年の朝鮮戦争特需を契機に、日本が高度経済成長期に突入すると、贅沢医療としての美容整形は、興隆したのです。
戦後の戦傷医療の一端として、進駐軍の医療団は形成外科分野でも、研究と医療指導を行います。原爆医療は格好の対象となったようです。形成外科分野の医療に触れる機会を得た、日本人医師達の中でこれらの新しい分野に興味を持つ者がいたのは自然の成り行きだったようです。まず東大で昭和31年に形成外科診療班が作られました。皮膚科、整形外科等から転向してきたのです。一部の医師は東京警察病院に移り、形成外科診療を始めます。当時は、形成外科と美容外科は一体として捉えられていました。しかし、ある医師は「巷間、美容整形なるものがあるが、我々は違う。」などと、差別化を図っていました。
その頃巷では、高度経済成長期に乗じて、贅沢医療としての美容整形開業医は、雨後の竹の子のように、増加していきます。昭和36年に父が銀座で開業した時点では、都内に三十院は下らなかったそうです。すぐに、山手線の各駅には揃っていたそうです。大阪では戦前からの外科病院である白壁病院が美容整形を始めました。
長くなるのでここまでの流れは一度止めて。次回は、実際に父に聞いた事実から書き始めます。