2013 . 10 . 17

美容医療の神髄Ⅳ-歴史的経緯第二話- ”口頭伝承話”その2

昭和40年ころまでは、美容整形の医師は、見よう見まねでまたは、創意工夫して診療していました。今だに市民間にも、医療者にも残っている感覚として、美容医療は福祉目的でないため、医業に過ぎず、そのため同業者にまたは、その斯界の他者にノウハウを明かさないという面があります。通常医療従事者は、保険診療とは国民の衛生、福祉を目的とします。したがって学会等で医療者同士や市民に啓蒙、教育することも業務です。しかし、美容医療は医療でありながら、啓蒙活動に不熱心であったのです。つまり、医学的見地のない医業として行っていた訳ですが、次第にそれではいけないという風潮が芽生えてきました。

昭和31年に東大で形成外科診療班が発足し、警察病院へシフトし、他大学でも徐々に形成外科が行われるようになります。既に欧米ではPlastic Surgeryは美容整形から再建外科までまたがる広い美容医療をカバーしていました。日本でも形成外科医達は、そうしたかったのでしょうが、すでに”巷間”に美容整形医がはびこっていたので市場を獲得することができず、むしろ、”巷間”の美容整形を攻撃することで、仕事場を得てきたのです。その限りでは、啓蒙活動をも行われてきました。

これまで申し述べてきたごとく、父は胸部外科出身できっかけがあって昭和36年に銀座で開業しました。当初は皮膚泌尿器科を標榜していました。銀座の築地の船乗りを対象に性器整形などもしていました。胸部外科で結核に対する胸郭形成術の後遺症としての乳房陥没に対する、シリコン注入等も行っていました。私は後年その後の変形を治す、何度も尻拭いをする事になりました。

昭和40年代になると、高度成長期となり、贅沢産業としての美容整形は雨後の竹の子の様に増え始めます。東京の山手線の各駅にはクリニックができ、形成外科出身の美容形成外科医も開業し始めます。そのうち、コマーシャリズムにも乗り始めます。テレビ番組出演やコマーシャル。雑誌の企画、広告がゴロゴロ出始めます。例えば、「イレブンPM」には美容整形のコーナーがありました。父は毎月の様に出演していましたし、当時十仁の梅沢先生渋谷の皆川先生、平賀先生、川井先生等々がよく出ていました。私はまだ小学生でしたが、時々見てました。父が何を言っていたかは覚えていませんが、二人の女医:平賀対川井の場bb組中での喧嘩は記憶に残っています。喧嘩の内容はよく覚えていませんが、この世界と女の怨念は怖いものなのだなという記憶があります。後年父はよく「美容外科には女医は合わないのだと思う。」とこの話を引用していました。但し逆に、美容整形医には、女性問題がつきもので、父もその一人でありました。さておき、父は「笑点」に月一回出演していました。当時の司会の立川談志と飲み友達だったようです。これには後日談がありますので、その際に。

酒と女はいい男のの必須アイテムだといいます。美容外科医は男の中の男として、女性に愛されるべきだと、父はよく言っていました。実はアルコールは弱く、ビール一杯で赤くなっていましたが、むしろ飲みすぎなくてよかったようです。毎日、銀座のクラブ数軒に顔を出していました。どこの店にもなじみのホステスさんがいて、患者さんがいました。父は毎日「回診に行く。」と言っては、銀座1丁目から、8丁目まで歩き回っていました。

そんなこんなで、美容整形は昭和40年代に勃興してきました。本邦では形成外科はまだ、黎明期でした。但し、だんだん日本社会で美容整形が認知されるようになると、向上心と競争心が強くなっていきます。逆にレベルアップを図る動きも起き始めます。医師同士の勉強と情報交換を始めるのです。つまり学会もどきです。父はまず、ゴルフ友達の上野整形のDr.西村俊実や、売れっ子でいわくつきのDr.鴛海と、定期的に寄合を開催しし始めました。他にも多くの寄合いが自然発生的に生じ、すでに発足していた学会にも加入していきました。昭和31年に発足した日本形成外科学会と、下部団体の日本整容外科会、臨床形成外科医会があり、昭和41年発足の日本整形外科学会は十仁が主体でした。流れとしては十仁系の開業医グループと、形成外科整容外科を名乗る大学や病院の形成外科出身の医師たちのグループに二分されていきます。美容医療の歴史としては例えば埋没法は、1962年(昭和37年)に発表されています。豊胸バッグは1972年(昭和47年)に発明されました。すでに多くの、現在も引き続き行われている美容整形法がこのころには出揃っていました。

さてまだまだ話題はありますが、美容医療にとって歴史的な転換期である昭和50年代に進みたいと思います。標榜がそのキーワードです。次回へ乞う御期待。

端折って書かないでおこうとも思ったのですが、私は小学校で(某私立初等科)同級生に、「お前のお父さんは、インチキ医者。」「やくざ医師。」などと言われたことが何度もあり、父にも訴えたことがあります。さらに、私が11歳の時父が母にフェイスリフトを施し、それを週刊朝日が取り上げました。「美容整形医は家族にも治療、綺麗になって家族円満。」とかいう題だったと思います。よりによって家族写真も掲載され私も写っていました。学校に当然知られ、かなり問題視され、叱責され、家族も呼び出されました。結局は不問にされましたが、私はこの頃から、世間は美容整形を必要悪的な一面で捉えているのだと、心に刻まれました。同時にいつかは人に後ろ指差されないような美容外科医になろうとも思いました。

もうひとつ、美容整形が隆盛を極めてきますと、当然問題も露呈してくることになります。有害事象の報道が散見されるようになります。先程名前が出たDr.鴛海は小ミスを起こした相手がその筋の人で、せびられ、むしり取られて、最後は自死しました。いや違うかもしれません。やられたという説もありました。実はその担当医は後年テレビで売れっ子になるDr.Iだったそうですが、ばっくれたそうです。どっちもどっち混沌とした状態になっていきました。なおここに出る問題医師はみな故人ですので、名誉を損ねる目的はありません。

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