茅ヶ崎徳洲会総合病院形成外科に一人医長として出向したのは平成5年4月からです。7年目に研修医を卒業して、医長として出向したので、研究日をもらえることになります。
前回述べた通り、大学医局員のデュティは教育と診療と研究ですが、出向者はあくまでも病院に雇われているので診療に邁進することが第一義です。医局に下の学年の医師の派遣の余裕があり、病院が採算面から受け入れられるなら教育も要求されますが、この年はまだ症例が少ないので、一人医長でしたから、教育はオフデュティです。でも通常出向者にも研究日は与えられます。大学医局と出向病院の交渉時に契約しているのです。派遣元の優位性があるためです。ところが別に大学医局から研究(さすがに一般病院では出来ない)に来る様には義務づけられないので、出向者は研究日の使い方を勝手にしていいことになるのです。北里大学形成外科医局からの出向病院の多くは遠方なので、それも当然です。当時は長野県に二つと熊本県にもありました。神奈川県にも二つありましたが、私の出向する茅ヶ崎徳洲会総合病院は一人医長ですから診療の義務を一人で負うので、相模原まで毎週行くのが難しいのです。とか言っていながら私は、もっと遠い東京都中央区銀座まで毎週行ってしまうことにしたのでした。建前としては、美容外科医療の勉強をするのは研究日しか無いということで、医局からも病院からも暗黙の了解を得られていました。幸いなことに茅ヶ崎から銀座は東海道線で1直線40分で行けるのでした。
という訳でこの年は毎週水曜日?の研究日に銀座美容外科での診療(バイト)を開始しました。診療といっても形成外科を6年間研修しただけの私には、銀座美容外科医院で美容外科手術をする程の能力はまだありませんでした。父の診療を見学したり、手術の助手をしたり、縫合くらいはしたりしました。今回先ずその話からします。
その頃の診察はまだ、知る人ぞ知る集団カウンセリングでした。特に予約診ではなく、来た人を狭い診察室(10畳位)にどんどん招き入れてしまいます。なじみの患者さん(父はクライアントと呼びます。)で術前の相談に来院した人はもちろん、術後の患者さんでもそのまま見せる。初めて来院した人は尻込みするのですが、「折角見られるんだから、参考になるし、あなたの為にもなるよ!」とか言って見てもらう。確かに術後の経過や中期的結果を見ると、新規の患者さんも理解が深まり、心積もりが出来て取り組みやすくなるという効果はありました。時間的にもコスパが高いのです。例えば、診察に一人30分かかるとして、6人集団で二時間なら短くて済むと云うことです。父は時々話が脱線するのですが、それも回数が減らせます。ただし父のよくない癖で、いいと思った手術をみんなに奨める。新しい手術法を学ぶと、ある時期自分のブームを持ってしまうのです。適応ではない患者さんにも「これいいでしょお!あなたも受ける?」とか言って困らせる。時には手術を受けてから患者さんに「乗せられたかも?」と云われることもありました。今私が継いでいる何人かの患者さんにもそう言われます。そういえばブームというのはビジネス的美容整形屋さんの得意とする方法論ですね。後年ある低劣ビジネス美容外科医にブームの講義を受けて、納得した覚えがあります。当時父がそんな意識を持っていたかは不明ですが・・。ところで、当時個人情報保護法が話題になり始めていた時代です。集団カウンセリングは法律上まずいんじゃないかと、議論しました。そうじゃなくても守秘義務に反するかと考え、進言してみました。父は徐々に集団の機会を減らしていきました。
銀座美容外科医院の行う美容整形上がりの手術は、形成外科分野の手術とは似て非なるものです。「飲む打つ買うじゃなくて、切る入れる削るのが美容整形の基本だぜ!」とか言って、旧態依然の手術をしまくっていました。切るはもちろん切開縫合が主体だということ、入れるのはシリコンプロテーシスがメインでシリコンジェリーの注射剤も貯蔵してありました。シリコンゴムの世界60%のシェアーを誇る(新幹線の潤滑剤で有名です。)信越化学に、父と二人で調達しに行ったこともありました。当時(1986年)には、コラーゲンが製造認可されましたが、父は「コラーゲンなんてすぐ吸収する奴は、まがい物だ!」とか言ってばかにしていました。
削るのは骨ですが、頬骨、エラ骨がメインでした。形成外科の医学的基礎的知識なんか無いので顔面神経の走行なんて知る由もない父の患者さんの中には、麻痺っているのが見え見えな人も何人か居ました。もう一度記しますが、美容外科医といっても形成外科の研修をしていない者は、その部位(顔面等の体表)の解剖的知識と理解は持っていません。前にも記しましたが、父は昭和28年に慶応大学医学部を卒業してから昭和36年に美容整形を開業するまでは、北里研究所病院で胸部外科を専攻としていました。形成外科は当時の日本にはありません。それがいきなり美容整形を開業したのは、北里の皮膚科医から銀座美容整形を継いだからです。それから何人かの美容整形医に教わってやり始めたのです。昭和50年代までは形成外科を学んだ美容外科医は数名しか居ませんでした。今となっては形成外科専門医(美容外科の為の基本的知識が審査されている医師)で美容外科も診療している医師が増えてきましたが、それでも形成外科を学んでいない美容外科屋の方がまだまだ多いのです。特に宣伝広告を大々的にしている医院(チェーン店)では、形成外科専門医はほとんど診療していません。その話は、この後の段の美容医療協会の話に繫がります。
縫合法は、形成外科医とその他の科の医師では全く質が違います。皆さん覚えておいて下さい。とにかく、創を出来るだけ目立たなくする技術を、何年も研鑽します。医師となって1年生研修医から6年生のチーフレジデントまで、毎日施行錯誤しながらより良い結果を得るべく努力しています。桃栗3年柿8年をもじって、糸切り3年真皮縫合6年と唱えていました。私は、真皮縫合が綺麗に出来て、創跡が目立たなく消えるに等しいと説明出来るようになるまで、10年を過ぎていました。しかし、美容整形医である父の手術を見ていて笑いました。だって道具も古いし、真皮縫合の何たるかも知らない。糸なんか絹糸ですよ。それも、ミシンのボビンに巻いたのを切って針に付けるので、ささくれている。フェイスリフト(もどき)をする際にも細かく縫うのはいいのですが、真皮縫合は寄っていない。表は絹糸でギューギュー縫うもんだから、数週間で創跡の幅が出てきます。真皮縫合も絹糸ですから、異物反応で押し出される。因みに私が小学4年生時に母がフェイスリフトを受けていますが、今でも時折似非真皮縫合糸が露出します。何しろ絹糸ですから、永久にあります。父は地球上には居ないので、私が取ってあげます。なんか猿の毛繕いみたいでみっともない。父親の尻拭いを47年間してきました。もう母も80歳なので、糸もプロテーシスもそのまま天国に持っていって欲しいと思っています。まだ7年目でも、銀座美容外科でバイトを始めたら非形成外科医である父の縫合結果に、ため息しか出なかったのでした。私は数例見てからは縫合時に手を出し始めました。特に真皮縫合を要するフェイスリフト(もどき;この点については次回以降)時には、私が居れば縫合時にはバトンタッチする様になりました。今でも継いでいる患者さんの中に9年生以降に私が縫った方が何人か居ます。それ以前の父が縫合した人も何人か継いでいますが(母も含みます)、創跡の質の差からしてすぐ区別が出来ます。
私が形成外科医になって7年目。父が開業して美容整形医から美容外科医として約32年。二人は助け合いながら、時に応じてスタンスを交錯させながら、形成外科医と非形成外科医の闘いを始めます。まだまだ話は尽きませんが、今回が医師と医師の交流の始まりです。過日テレビドラマを見ていて思い出しました。医師同志はいつもぶつかるし、合同するし、それはより良い結果を得る為という意味で患者さんの為の言行であるわけです。
まだまだ続きます。現在28年目の私は長い後日談を書いていきます。残念ながら父が鬼籍に入って11年ですが、それまでの10年以上の話は尽きません。その間の美容医療の世界の動きも多様です。
そういえばスタンスとして、1993年は美容外科領域の一大センセーションが起こった年です。日本美容医療協会の発足です。長くなりましたので次回にこの話からとします。