2016 . 1 . 22

美容医療の神髄35-歴史的経緯第35話- ”口頭伝承から、自分史話へ”その12

まだまだ話題は尽きません。標題を見たら歴史を35回書いてきました。24回は父との人生を邂逅しています。私と父の医師としての交流はやっと12回です。近年の美容医療の歴史です。そして形成外科医と非形成外科医の交流です。ここで、一大センセーションが勃発しました。日本美容医療協会の発足です。

何がセンセーショナルかと言いますと、形成外科と非形成外科の美容外科界での椅子の奪い合いが顕在化したからです。

またその話ですかあ?。私と父の医師としての人生は美容医療の世界の軋轢に満ちています。その世界での社会的行動でも、個人的な行動においても、父子はいつも尊敬し合い、反目し合い、憎み合いながら、愛し合ってきました。どこの家でも父と子はそうして成長していくのでしょう。特に高度成長期を生きた前世代と、失われた20年の現世代間では、皆こうしてもがき合っています。だからこの世代間には典型例にあふれています。でも歴史を見れば、戦国時代はもっとすごいでしょ?。親が使えない子を消すのもあり。家督相続したら親を追い出す子もいました。今やっている大河ドラマの舞台なぞ史実はすごいことになっていますよね。

美容医療の世界の軋轢の実録を記していく前に、父のことを記憶の範囲で思い出して記してみます。そこにもヒントがありそうです。

つきましては、私共の家族歴?を披瀝することになります。私の父が慶応大学医学部を卒業してから、何故北里研究所病院の胸部外科で研修したのかは判りませんが、たぶん身動きが取りやすいからでしょう。父の母親の弟が川越市で病院をしていました。栗城至誠と名乗ります。先代院長の娘と結婚し病院を継ぎました。次の代も娘の夫が継いでます。女系なのです。因みに先代は川越市の柳沢氏、言わずと知れた江戸時代の藩主の家系です。祖母栗城愛子は猪苗代の生まれで、祖父森川忠雄の森川家は会津藩の家老出身で、江戸時代からの医師の家系です。祖父母は昭和2年に父を産んですぐに別れたので、祖母は結局川越市の弟に身を寄せたのです。もっとも祖母はインテリでモガ(モダンガール)、教職者と声楽家とピアノ奏者をしていましたから、当時でも経済的に父を医学部に入れる余裕はあったのです。とは言っても弟に恩を感じ父を病院に住まわせ、そこでも診療をさせながら北里にも在籍させて、医学博士までは取らせたのです。8年間程埼玉県の川越から白金に通ったらしいです。北里研究所病院はもちろん北里柴三郎の創立で、研究所から発展したので、医学博士取得の為の研究が可能な設備と人材が揃っています。あくまでも慶応大学医学部からの出向関連病院ですが、教授さえも出向しています。だから北里研究所病院に出向しながら医学博士が申請できるのです。慶応大学の初代医学部長は北里柴三郎ですから、研究所の方が優位だということです。こういうのを、ドイツ語でレールジッツというのだそうです。父は結婚後も病院に住み込み、私も川越の病院に産まれ、3歳までは病院に住み込みでした。その大叔父が院長である赤心堂病院は、当時川越市内唯一の救急病院でしたから、重症外傷患者がひっきりなしに運ばれたそうです。私はその光景を目にしていたから、外科医に向いているという話を父母から言い含められました。小さいときの記憶は定かでありませんが、今でもそのシーンを脳裏に描くことが出来ます。そんな病院ですから、父は外科医として便利で有用だった訳ですが、当時胸部外科はメインストリームでした。だから父は美容外科や形成外科なんて専門外です。もっとも大叔父は植皮のスペシャリストだったそうで、形成外科っぽい分野に触れていたのです。その点が父の美容整形との関連があるかは、今となっては存命の人がいないため定かではありません。東京に出た私達家族は、祖母とも同居していましたが、中学生の頃に祖母から秘蔵の?古文書を見せられたことがあります。森川家に伝わる、江戸時代のやけどの薬の作り方の本でした。形成美容外科分野に造詣があるのだと言い含められた覚えがあります。

父が銀座整形を開業したのは昭和36年、いや当初は銀座東一診療所という屋号でした。当時の地名で銀座東一丁目にあったたからです。元は北里研究所病院皮膚科部長の福住先生が開業した診療所です。北里研究所病院の医師は在籍しながら、サテライト病院を開設することが許されていたようです。たぶん暗黙の了解でしょう。私がそこに出向していた近年でも何人もが開業していました。ところがその皮膚科部長が、その後北研病院の院長になった際に父に継承させたそうです。さすがに二つの病院の院長は出来ないからです。福住先生が何をしていたのかというと、毛生え薬を処方していたそうです。実は父も、30歳代から薄毛でしたが、置いていかれたその薬を試してみたところ、効かないどころか却って一時的に悪化したそうで「インチキ毛生え薬を売ってたんだぜ。」と後年私に教えてくれました。

父は、いきなり銀座で開業したのですが、実は北研病院に伏線があります。当時まだ結核が流行っていました。そもそも北研は療養所でした。胸部外科では、当時の定番の治療として胸郭形成術を盛んに施行していたのです。結核に罹患した片肺をつぶして菌の繁殖を抑える手術です。骨ごと潰すので胸も凹みます。そこで見た目だけでも治す為に、当時の先端のシリコンジェリーの注入を試行したのです。病気の治療後の形態再建ですから、今で言えば形成外科医療ですが、当時は胸部外科医が勉強してやっていたのです。そう考えてみれば、美容医療のさわりを経験していたのです。後年シリコンジェリーの注入が経年変化を起こし、容易に治せない合併症を生じることになるのは皆さんご存知だとは思いますが、当時は患者さんにとって福音だったのです。

実はそこから、葛藤が起き、グループ医師間の争いが起きる一因にもなります。シリコンジェルの注入を応用した美容整形医と、医学的に否定的見地を訴える形成外科医の軋轢が始まるのです。

年次的にもう一度説明すると、本邦では、戦前から重瞼術を眼科医が、隆鼻術を耳鼻科医がやってみていました。あくまでもやってみていたのです。戦後にGHQが戦傷外科の一環として形成外科的医療を紹介しました。原爆の治療と研究が長崎でされました。つまり米軍は人体実験としても原爆を使ったのです。全国に米軍病院が接収されましたから、形成外科医療も普及され始めました。同時に十仁病院を始めとして美容整形というまがい物が行われ始めました。しかし昭和30年代までは、米国から派遣された形成外科医も美容整形に関わっていました。有名な形成外科医が十仁病院視察記を論文に書いています。

昭和31年に東大の皮膚科から形成外科診療班が分派して、東京警察病院を舞台に診療を始めました。そこで研鑽した医師は他大学に形成外科を作り始めたり、一部は美容医療で開業していきました。もちろん形成外科も美容外科も標榜出来ませんから、整形外科とか皮膚科でした。

警察病院と東京大学、他に慶応大学、京都大学や上記の長崎大学等に順次形成外科が開設され、学問的になって行き、美容整形医を攻撃し始めたのです。少数の美容整形医は、形成外科医との交流もしていましたが、逆に結果的に、対立の構図を深めて行きました。昭和40年代は、美容整形医がマスコミを利用して席巻していました。対立がより深まりました。昭和45年以降に新設医大が続々設立されると、その多くで形成外科が開設されましたから、形成外科医が増加します。その結果もあり、また美容整形医の政治的な巻き返しもあり、昭和51年に形成外科が、昭和53年に美容外科が標榜科目となりました。ここまではこれまで断片的に記してきました。

私が北里大学形成外科に入局し、医局員として、どさ回りをしている10年間に状況が変位します。美容外科の標榜科目化の結果として、大手を振って雑誌やテレビでコマーシャリズムに乗り、よりビジネス化して行き、さらに進んでチェーン店化が進んで行きました。Tクリニックが先鋒でしょう。この十年間に多店舗チェーン店展開が進みます。今は無きKクリ、S美容外科(SMCとは違う。ただしA院長はSのOB)、Kyo-~美容外科(Tクリ出身)、chu-~クリニック(十仁出身)などです。

私の父は美容整形あがりですが、一人院長です。それまで押し掛けてきた若い医師を雇ったことがありますが、父は厳しいので一人も続きません。いや、盗まれるのが嫌だから、はなっから教えるつもりが無いのです。もっともそこは父子ですから、私には教えたくて仕様がなかったのでしょう。父はプロテーシスの作り方やシリコン注入の仕方を、学生時代から仕込もうとしていました。また事あるたびに、学問的に女性の美と美容整形の哲学を、とくとく説いたのでした。

大学医局側からすれば、そんな私は半分敵で半分子分で、ある意味ではスパイ扱いでした。そんな中で郷に入れば従う私は、形成外科医療に頚まで浸かって(あくまでも全身ではありません。)、6年次までは医局員としてどさ回り人生を過ごしていました。その間言われた一言は今でも忘れません。助教授だったI先生には、仲人を引き受けてもらうくらい可愛がってもらったのですが、ある時、「KクリのY院長は北里の卒業生だけど小児科だぜ!、ひどいもんだな。チェーン店は違法広告で成り立っているのさ!そもそも違法なんだよ。アッ、お前のところも美容整形だったけど、チェーン店じゃないもんな。一緒にして失礼。」だって・・、悲しかったです。さらに「お前さんはまともに形成外科医をしてから、美容外科をするんだよ。」と念を押され、「お父さんのところでバイトしてるんだろ、宜しく言ってな。」だって・・、複雑な想いでした。そこで、恩がある先生だから、将来おおっぴらにアルバイトをしてもらうのもいいな?、と心に秘めました。さらに1990年代に入り、教授が代替わりします。Uc先生です。北里大学2回生、形成外科医局では卒業生のの中の最上級生でした。私の入局時は、彼がスタッフとして大学に戻った頃で、最初に教えを請いました。厳しくも優しい頼りにになる先生でした。2年時にに結婚時に仲人をお願いしたのですが、「まだ若い私はまずい。I助教授に頼みなさい。俺からも言って置くから。」と言ってくれた程、謙虚な人でもあります。

Uc先生が新教授となり嬉しかった。ある意味私達の兄貴みたいな人で、親分肌でもあります。教授とはこの後、美容形成外科の世界でも二人三脚的な行動をする場面もあります。私に取っても重要人物です。でも前教授のS先生は、まだ厳然として権力をふるいます。そんな中、1992年に日本美容医療協会が発足するのです。その中で誰がどう立ち回って行くか?、前教授、新教授、私、父、他にも沢山のアクターが登場します。

新教授が常日頃言う事がいい言葉でした。「これからは形成外科医は美容をどんどんやるんだ。医局員を喰わせる為でもあるし、医局員が開業するのに必要に決まっているんだ!」教授として形成外科医局員の為に動く、なんていい教授だとは思いましたが、マーケットをどれだけ浸食されるかの心配はありました。

そんな中での、美容医療協会の発足はどんな、意味があるのでしょう。次回再び7年次の年代に戻って話を進めたいと思います。