2016 . 9 . 8

美容医療の神髄-歴史秘話第58話-”口頭伝承”:美容整形屋と美容形成外科医”その34”「銀座から相模原編」

平成9年銀座美容外科医院に出向した際に、学会系の件では、父と協力もしました。パネルを作って患者さんにも説明しました。要するに父はJSAS系(非形成外科)とJSAPS系(形成外科系)の両翼に足場を築き、顔を突っ込み、重鎮化していき、二股の本領を発揮していきます。今回その件の後、翌年1999年、平成11年は、私が医師13年目にして久し振りに北里大学病院形成外科で診療、研究、教育の三職を受ける年となります。

何度も記載しますが、国民には理解が難しい話しですから、もう一度学会のグループに付いて説明します。

父がよくホザイていました。「整形外科医は大工さん。形成外科医なんて傘張り職人かせいぜい鋳掛け屋だ。どうせ外科のストレスに着いていけなくて落ちこぼれた奴が転向したんだろ。」とか、「美容整形は外面内面を治す人格医療だ。皮だけでも骨だけでも内蔵だけでもないんだぜ。」「そう、だから高級なんだ。」

私は「じゃあ、美容外科に必要な医学知識はどうやって学ぶんだ。腹部外科医や胸部外科医は顔の解剖知識なんか学ぶ機会はないし、整形外科医は顔はいじらない。」「形成外科の医療場面では、壊れた顔を治す。壊して再建する機会が多いので、知識なしには出来ないんだよ。」と反論しましした。

すると父は「でも、形成外科医は美容外科医療はしないと宣言した大先生が居たろ?。昭和51年に形成外科が標榜を得る際に当時の学会理事長が宣言したんだぜ!、ヤダねえー東大は!。」と、昭和大学医学部形成外科のOn教授の言を持ち出す。しかもそれは学会誌にも記載されたので、父はそれを所蔵していて事ある毎に持ち出して、私にも見せつけるのでした。

そうです。確かに形成外科と美容整形は違うし、美容外科医療の経験を積んだ形成外科医は20世紀中の当時には、数える程しか居ませんでした。これまで記して来た様に、形成外科出身の美容外科医は全国でも100人以下でした。私は当時から既に、JSAPSで顔が広くて美容外科医療をしたい形成外科医を網羅していましたから、ほとんど知り合いでした。逆に言えば、各大学の形成外科医局に10年以上在籍して来て、同時に美容外科の勉強をして来た医師同士は、日本形成外科学会や日本美容外科学会JSAPSの学会場で会うたびに話題を交わし、医学的議論をする機会があったので、何となく同志の気持ちとなっていたのでした。まだ形成外科医の中で積極的に美容外科診療をしている者は異端ではありましたから、党内派閥みたいなスタンスだったかも知れません。

しかし、昭和53年の美容外科標榜以来既に20年以上経ても形成外科出身の美容外科医は劣勢でしたが、全国各大学の形成外科教授陣や、大学病院で美容外科的医療をかじった形成外科医が人数をバックに、JSAPSは力を強めていました。

一方JSAS側は昔の美容整形開業医時代の医師は占有率を徐々に下げて行きました。昭和53年以降にバブルにも乗って開業したチェーン店が数を優勢にし、そのメンバーも経験を積んで権力を持つ様になったからです。こうしてJSAS側の医師群は二分化しつつありましたが、非形成外科であることで一致団結していました。

こうして見ると、私はまだ当時は形成外科医局に在籍しながら美容外科を銀座を初めとして各地で診療するトップランナーでありながら異端者でした。ついでに言えばその頃、私は友人達から「美容外科バイトのクリニック数が日本一!」と呼ばれていました。そして父は、美容整形開業医からJSASの重鎮となりながら、チェーン店を蔑視する異端者。どちらに居ても共に異端者でした。こうなれば父子で開き直って、私はJSASへも顔を突っ込み、父はJSAPSで協会の理事となり顔を利かそうと動き始めて、二つの学会の合同へ向けての運動も始めた方が、立場が作り易い状況になるという判断がなされてきたのです。

JSASとJSAPSは“二つの学会”なので、厚生省から認知されず法人化もできない定めでした。そこで両者は法人を設立しました。それが日本美容医療協会と日本美容外科医師会です。協会は公益法人として、厚生省の管轄で厚生大臣(ある教授の同級生)を会長にし、患者の為の美容医療を推進する建前で、マル適マークを作り審査して美容医療の向上を図ったり、広告規制(本来は規制でなく順法化)を審理していました。医師会はあくまでも同業者団体としてNPO法人化し、美容外科医の厚生も含み、外国からの物品を紹介し共同購入するルート作りをしたり、協会のマル適に対抗してマル優マークを作ったりしていました。

父が協会の理事に当選して二つの学会の合同を提唱し続けてもやはり動きませんでしたが、ずっと敵視し合っていたのが、次第に交流が起こって来ました。JSAPSの医師がJSASで講演したり、JSAS側のチェーンに形成外科医が就職したりし始めたのはこの頃からです。僅かでも進捗し始めました。ちなみに後年合併の一歩手前までいきますが、J病院を守る為に土壇場で頓挫しました。

さてこの前年の平成8年に父は年一回のJSASを主宰します。実は私はその機会に入会しました。講演をするのは2回目の開催である平成11年となります。日本美容外科医師会は1997年、平成9年に発足しましたが、父と私は発足時から参画しました。というか、ここでも父は中心メンバーでした。私は「日本美容医療協会の理事が、敵側の日本美容外科医師会の発起会員じゃあまずいんじゃあない?」と疑問を投げかけました。父は「いや協会は公益法人で、医師会は同業者団体だ。目的が違うから周りに文句は言わせない。それにいつも言っている様に合併が目標だ。その道筋の一つになり得る。」と開き直るのでした。さらに父は「ウソか夢か知らんが、ウソも100回唱えれば本当に思えて来るって言うだろ?」とかいって自分の世界に入っていました。

今考えると、父は私が入局した際から、二手に分かれて動かそうと考えていたのでしょう。私のことを「人質に取られている。」と言って起きながら、むしろ私を足掛かりにして形成外科側に喰い込んでいったと言えます。思い出せば私がまだ大学生の時父に連れられてJSAPSに参加した際から既に目論でいたのでしょう。こうして父は両側に足場を固めていき、私も次第に両側に関与していく様になるのです。

ちなみに日本美容外科医師会の発足時の会長はIn先生でした。In式わきが手術の道具の発明者です。効果は抜群で100%取れますが、跡が酷いので私はしません。JSAS側のほとんどのクリニックでは、通常使わなくてもオプションとして道具を用意していました。実は特許を取っていたのです。だからJSAS側のクリニックの美容外科医は彼の顧客だったわけです。In先生は毛髪の分野でもベテランだったので、その面からJSAPS側とも繫がりが強く(我々と同様に二股)、やはり合併推進者の一人だった点でも医師会のトップに担ぎ上げられた所以です。

となると、次は父でした。何故In先生が譲ったのかははっきりしませんが、父が会長になり、形成外科出身の美容外科医グループJSAPS側の日本美容医療協会の理事と非形成外科医の美容整形あがりの美容外科とチェーン店系のグループJSAS側の日本美容外科医師会の会長およびJSASの主宰を兼ねる事になりました。実は顔を広げすぎたのでしょう。この後日本美容外科医師会に於いてクーデターが起きます。首謀者はTクリニックです。そのいきさつは次回以降とします。

長くなりましたが、銀座美容外科出向の年には様々な事が起きました。いろいろ勉強になりました。この年の件はここまでとし、いよいよ北里大学形成外科・美容外科の大学での三位一体の仕事に戻ります。一つ年を経て話題を展開します。