2016 . 12 . 9

美容医療の神髄-歴史秘話第70話-”口頭伝承”:美容整形屋と美容形成外科医”その46”「相模原から全国へ編2:美容外科学」

平成11年、1999年、私が13年次前後のトピックスです。日本美容医療協会とT先生の一悶着、その結果としての美容外科医師会でのクーデターを紹介しましょう。これはギリギリの危ない話題ですが、当事者しか記憶に無いはずですから、名誉を毀損するつもりでは無いことを強調します。T先生はお友達ではあります。またご子息は形成外科に所属しながら、美容外科を研鑽して来たと言う意味で、私と父との関係と同じルートです。会えば挨拶するいい奴です。現在売り出し中です。まだT先生の方が前面ですが、M.君の露出をかなり増やしています。私と父の関係に於いては、父は死ぬまで私を前面には立てませんでしたから、うらやましい限りです。

日本医療協会の理事は15人選出されています。父はドンキホーテと言いつつ自らを奮い立たせて会員にアンケートを取り、意見を同封して、票固めして当選しました。その後JSAS側が対抗して、日本美容外科医師会を設立しました。当初はわきがと毛で有名なIn先生が会長でしたが、2年後に父が会長になりました。どちらも非形成外科医の重鎮です。T先生は非形成外科医の旗ふり役ですから、発言力を誇示していました。

ある年T先生が脱税で挙げられました。それも多額でしたので(そりゃあ儲けているもん)、彼の病院は母親が理事長でしたので、収監されました。T先生は収監されませんでしたが、厚労省の外郭団体である医道審議会から医師免許停止1年間を命じられました。しかし彼は、確かにその間診療行為はしなかった様ですが(診療は他の医師がしていればいい)、雑誌の広告に肖像は掲載したままでした。本来雑誌の広告は、医業の一部です。ですから、免許停止中に広告に肖像を載せたら無免許医療に該当し得ます。そこで、厚生省が管轄する公益法人である日本美容医療協会が厚生省に対して、医師法違反の疑いで摘発しました。でも、当時日本美容医療協会の理事で、日本美容外科医師会の会長であった父は、当日の理事会から帰るなり、「これは巧くないな!。Ho.医師のばかめが!」と言って危惧していました。Ho.先生はS大学形成外科教授で当時の日本美容医療協会会長でした。つまり訴求側の代表者です。

紹介しておくと、T先生もS大学出身でHo.先生とは同級生で、T先生は美容外科をしたいのに、当時の趨勢として形成外科に入局しないで整形外科に入局し(まだ美容整形と標榜していたから当然と思ったのかも知れません。)ながら、当時の形成外科のOn.教授に教えを請い、さらにアルバイトを要請して美容整形を学んでいったと言ういきさつがあり、Ho.先生は教授の鞄持ちとしてTクリニックにも同行していたそうです。いつしかこの二人はとても仲が悪くなっていました。後年T先生は「Ho.はばかですからね!」とも言っていたし、「有名なOn.教授の形成外科の教科書の中の、美容外科の章の写真の症例はうちで(Tクリニックで)の症例なんですよ。しかもその際に今をときめくS大学形成外科のHo.教授も着いて来ていて、アルバイト代払ったんだぜ!。その彼がなんと!私を訴えたんですよ。」とか罵倒していました。

日本医療協会は形成外科出身の美容外科医が中心となって、大学の偉い先生が厚労省を担いで(某大学の形成外科教授が当時の厚生大臣であるTs.国会議員と同級生だったそうです。)作った公益法人です。T先生の行為は、患者の利益という公益に反する蓋然性が高く、厚生省に摘発したのですが、上記の経緯からしてHo.先生とT先生の間の私怨も介在していたことは知る人ぞ知るでした。

T先生は反論しました。「広告は私が美容外科医療の啓蒙を目的に書いた本(当時たくさん書店に平積みされていました。)の広告であって、医療行為では無く医業でもない。私は文筆業です。」と、直後の日本美容外科医師会の会合で述べました。さらに「美容外科医師会に出席するのも医業では無く、これは同業者の寄り合いです。」とも述べました。そこにいた医師は苦虫を潰して聴いていましたが、私と父はそんな詭弁が通るのかと耳を疑いました。しかし立て板に水の如くT先生は弁を続けました。「そこにいらっしゃる会長の森川先生は私の尊敬する美容整形の大家です。私はこれまで教えを受けて来ました。でも美容医療協会の理事でもいらっしゃっておられます。協会は私達非形成外科の美容外科医を貶めようとしました。営業妨害です。皆さんご存知ですよね。」美容外科医師会会合では、出席して美容外科医師は私を除いてみな非形成外科医です。みんな渋い顔をしながらも、T先生に同意し頷きました。そしてT先生は「解任動議が出ると思います。」と言うと、子飼いのO女医が「日本美容医療協会の理事が日本美容医師会の会長です。お立場的に会員(T先生のこと)の訴追を防ぐ根回しをするべきだったのに出来無かった様ですし、体力的にも高齢ですから無理が祟ったのでしょう。辞意を頂きたく存じます。」と発しました。予めT先生と打ち合わせてあったのでしょう。

ここで反論してはまずいと考え、父は檀上で「解任動議が発せられました。」と半ばあきらめの態度を取りました。それまで、JSASの会長も二回したし、当時の若い非形成外科の美容外科医には慕われていましたし、しかも私はアルバイトに行き修行させてもらっていましたから、仲がいいつもりでした。私達父子は、若しかして解任動議は否決されるかとも期待しました。T先生は、日本美容外科医師会の事務局長も兼ねて居ましたから、もう一度発言しました。「皆さん形成外科医が戦争を仕掛けて来たのですよ。森川先生はその一味でもあるのです。」と念を押して挙手採決に到りました。

やはり父は敗北しました。権力争いは金持ちが勝つ。父は別に会長を辞めても美容外科診療は出来るんだからいいっかと開き直りましたが、父の悲願である美容外科学会の統一の夢は潰えました。

私達父子は、非形成外科医(胸部外科出身)で美容整形の草分けである父と、形成外科医局員でありながら美容外科診療に邁進する私であり、実は反目することさえあったのですが、父の目標は、二つの美容外科学会を一つにまとめて、医学界で普通の医療科目として認められるようになりたいということでした。

医学の世界には日本医学会という日本医師会の下部団体があり学会を統括していて、厚生省も医学の専門的な学術的知識はすべて従うことになっているのですが、同名の二つの学会があるから美容外科は標榜科目になっても日本医学界に加入できません。勢い美容外科は医学に裏付けされた医療と見做されずに、ビジネスライクに走ることと成ってきた訳です。こんな状況を抜け出すために父は努力してきたし、私は形成外科分野に人質に出されていたようなものです。

今現在その機運があり、制度的に進みつつあります。形成外科学会は既に日本医学会に加入していますから、JSAPSはその関連学会として、日本医学会に加入する予定です。私は専門医ですから大手を振って専門医を広告できるのです。今まで勉強して、学会活動もしてきて、知識と技術を上げてきた甲斐があったというものです。まともな美容形成外科医が報われる時代が来るでしょう。父の遺志が実ったということでしょうか?。しかし当時は潰えたかに感じられました。

ついでに言うと、T先生は上に書いたように非形成外科医ですが、実は日本形成外科学会には加入しています。何故か専門医も持っています。JSASにもJSAPSにも加入しています。保険ってもんです(私もですが)。そして、ご子息M.君は形成外科に入局して専門医を取得してから、JSAPSの専門医も取得しています。だからJSAPSでは毎回会います。数年前にJSAPSとJSASが合併する動きがありましたがJSAS側がのみませんでした。しかしその頃から、T先生はJSAPSにシフトしてきました。でもご子息のM.T.先生とは学会場面では行動を共にしません。勉強を一緒にしようとはしません。そこが私達親子と違うところです。私はJSAPSに父と共に出席して、学会場では隣り合って演題を聴き、父は私によく説明を求めたので、私はうるさいと思いながらも教授してきました。どうも父は、日本美容医療協会の理事会で自慢していたらしくある理事に云われたことがあります。

今回の話題は面白かったでしょうか?実名は明かしていませんが、多くの読者は推量できますでしょう。でもこの内容のうちの大部分は公表されていることです。新聞にも載りました。日本人は半知性主義ですからそんなことは忘れる民族です。でも私達は、父はそれこそ死ぬまで言い続けました。私もつい3年前まではJSASにも美容外科医師会にも参加しませんでした。逆に今の雰囲気ではみんながJSAPSとJSASの両側に参加して保険を掛けるようになりましたから、私も参加することにしました。もしかしたらそのうち合併するかもしれませんし、みんなが両側に参加したら、合併と同じことになるからです。

今回の話題は一回止めて、次回は、その後私の14~15年次の形成外科医生活と、美容外科のアルバイト生活。銀座美容外科医院の行く末について書き始めます。