13年次の研究員としての研究の紹介はここまでとします。大学病院医局でのお仕事は、臨床と教育と研究の3本立てであると強調しましたが、研究にどっぷりつかっていただけではありません。卒後教育面は美容外科を大学病院で展開するする際に付随しました。臨床も同様ですが、臨床面とはアルバイトも含みます。
ところで、研究の結果としての論文は手許にありますから、それをもって研究の内容を紹介したのですが、本来の目標は博士の取得にあります。13年目に論文は書き上がりましたが、その後は投稿、修正を経て受理されるまでに日時を要します。審査はその後ですが、大学の都合もありますから、チャンスは年に一回です。ですから、この後の博士号取得までの道のりは14年目以降の話題に挟んでいきます。ところで博士号というのは最終学術歴となるタイトルです。医学界ではドイツ語を多用しますから、Titel:ティーテルと言います。いまどきは英語がよく使われますから、ティーテルと言っても知らない人が多く、先日博士号を取る予定の医師と話していたら話しが噛み合わなかったのが残念でした。なお博士号は国際的には洋語でDoctor of Philosophyと称されます。直訳すれば哲学博士ですが、いわゆるリベラルアーツ学問を総称してこういうのです。そして現在では本邦でも博士は分野を問わずに称します。分野はカッコで、博士(医学)と肩書きを付けます。また医師は、英語ではMedical Doctorですが、訳してM.D.と称します。ですから、博士(医学)は訳して、M.D.,Ph.D.と称します。論文の肩書きもこうなりますが、私は博士号取得後英文投稿をしていないので、まだ載っていません。
さて三つのトピックスがあります。ISAPS、日本美容医療協会とT先生の一悶着、その結果美容外科医師会でのクーデターを紹介します。その前にアルバイトの紹介をします。一回では書ききれないかも知れません。
この年のアルバイトは十仁と、コムロ上がりのK事務長が主宰するいくつかのクリニックでした。 年次の記憶が不確かですが、他にも多くのクリニックにアルバイトに行きました。その頃いつからか、JSAPSで仲のいい広比先生(コムロで一緒にバイトしていたし、北里から当時出向していた白金クリニックの常勤だった。)に会うたびに、「森川先生は日本一バイトのクリニック数ですね!」と皆にいいふらしてくれていました。イニシャルで羅列すると、Og.クリニック東京院につき一回程度。Chu.に9年次に隔週。北研の泌尿器科の医長が地方で経営していたお下(おしもと読む)のKクリニックに隔週。その後はコムロの3院を持ち回りで週に1日半。一度だけ東京駅近くのTクリニックに見に行って危なそうなので辞めたりしてきて、12~13年次は十仁札幌に毎週末行きました。見に行っただけのも加えると10院は下らないでしょう。9年目から、アルバイト探しで電話攻勢して、色よい返事がもらえなかった話は紹介しましたが、Ut先生の紹介で何院か行き、その後コムロに行ってからはうまく売り込むことができるようになりました。
十仁は父との関係でもありますが、院長のUm先生も二代目同志ですから今でも懇意です。JSASの学会でも協力しましたし、父も主宰しましたか、そこでの人脈も増えました。十仁札幌院での臨床医療は大変勉強になりました。例えばフェイスリフトをして翌日経過が良かったら、帰京して翌週見ても問題ない安全な手術を覚えました。ある日は翌日血腫に気づいて、再手術したら、翌週何事もなく治っていたといういい経験もしました。臨機応変に対処することの重要さを学んだわけです。
12年次に銀座美容外科医院で常勤していた年のある日に、コムロ美容外科の事務長だったK氏から連絡があり、美容外科医師を探しているとのことで会ってみました。彼はコムロ先生と九州の同郷ではありますが、コムロには長く居ませんでした。でも美容外科医院経営のノウハウを身に着け、郷里の宮崎で医院を開設しました。そしてその後、いくつかの地方でクリニックを買ったり居ぬきで乗り込んだりしてきました。既にコムロ時代の医師に声を掛けてアルバイトをしてもらっていました。もちろんそのうちの何人かは私も知り合いでもあり、今でも懇意です。K氏とはある日会って食事して保留しましたが、もう一度銀座に来院し、父にも依頼しました。話がうまく「いつか軌道に乗ったら銀座美容外科医院の傘下に入ろうと思っています。」って言われたら、父も悪い気はしないです。私もまあそれも有りかなって思いました。その後泥沼に入ることになります。とにかく、13年次に北里大学形成外科で働きながら、月一回日曜日に宮崎院や旭川院に手術しに行きました。その年の際に説明をします。
さて三つのトピックスの残りです。ISAPS、日本美容医療協会とT先生の一悶着、その結果美容外科医師会でのクーデターを紹介しようと思ったのですが、やはり一回では書ききれません。
ところでその頃の美容外科の斯界はどうなっていたのでしょう。JSAPSでのスタンスは固まっています。学会発表もしましたから、研究面の一部です。日本美容医療協会では父が理事となり、私も深く携わる様になりました。さらにISAPS(世界美容外科学会)でも発表しました。これは運に恵まれたと思います。さらにJSASに入会し、日本美容外科医師会でもスタンスを固めつつありました。細かい内容は次回以降に説明します。 ブログは長すぎると読めないので今回も一回止めます。次回学会系の話しをして14年次へ向かいます。