2017 . 7 . 20

美容医療の神髄-歴史秘話第100話-”口頭伝承”:美容整形屋と美容形成外科医”その75”「地方都市18:美容外科医は辛いよ!」

前回予告しました様に記念すべき(別にぃ~と云われたらそれまでですが!)100話です。そこで、これ迄の流れを見返してみて今後の流れを予告します。ブログはこの時点で私の医師歴は1987年=昭和62年からで16年次。今は2017年=平成29年ですから現在医師歴は30年次を終えたところですから、やっと半分まで来ました。という事は後100回は書けそうです。

医師になる前からの父、銀座美容外科医院(私の幼少時は銀座東一診療所から銀座整形となった。)院長である森川昭彦との想い出または教育も書き加えて来ました。何故私が美容外科医を志したのかの一端が垣間見えると思います。思い返してみると、学生時代から美容外科医への道を引かれて来ました。それどころか父は、私が物心つく頃から、美容整形医の崇高な哲を、私に植え付けようとしました。逆にそんな事を、私も歴史を書きながら記憶を掘り起こす事が出来ました。その上で美容医療の歴史の一端は残せたと思います。

北里大学を卒業して医師となってからは、美容外科医を目指して北里大学形成外科医局に入局しました。でも大学病院の形成外科医局では異端視されながら、そのうち私は形成外科診療が面白くなっていました。しかし美容外科医の子である私は特別扱いされ、形成外科界に敵対する美容外科チェーン店でのアルバイトを許され、また父の医院での診療も手伝いました。形成外科医の世界と美容整形屋の連中の軋轢は激しく、渦中に投げ込まれて来ました。でも大学形成外科医局員で美容外科診療に精通する者は数少なく、私は重宝されました。教授自身が「これから形成外科医は美容外科診療をしないと喰えないぜ!。アルバイトも就職も難しいからな。お前が引っ張っていけ!」と私に発破をかけながら重用しました。

最近北里大学形成外科医局出身者である美容外科開業医が多くなりました。銀座院に受診する患者さんにこの手術は誰がしましたと訊くと、「どこ医院の誰先生が手術したんです。」と答えるから、その瞬間「アアあいつは後輩で私が北里大学形成外科で美容外科診療担当だった時に一緒に診療したんです。私が仕込んだんです。」と答える機会が増えました。嬉しい事ではありますが、ちょっとまずいからうちを受診する人が居るので、気まずい場合もあります。でも、基本的にまともな結果を出している事が多いと感じます。ほとんどがの場合、チェーン店系の非形成外科医のヘタクソよりは100倍良く、さすがに創跡も綺麗ですからホッとします。

13年次に北里大学形成外科医局で奉職して、医学博士も取得してから、2年間出向した際にはもう、かなり美容外科診療に力を入れ始めました。美容外科へのアルバイトも週2日半行きました。そうしているうちに開業の話しが持ち上がったのです。これまでの99回を反芻しました。

時は、私が医師16年目、平成14年、2002年にA美容外科を開設していた前後の話題でした。A美容外科グループの話題が地方中都市チェーン展開の話題に移りました。三院あるうちの一つ、松本院の話を始めたら信州大学形成外科を訪問した際の話題に移り、眼瞼下垂診療の中心人物である松尾教授との面談について書き始めたら、松尾教授の眼瞼下垂症診療における概念の解説に終始し始めました。これ迄に無く、話題がアッチコッチに跳んでしまい、計5回も費やしました。

今回から、やっと美容外科医の話しに戻ります。A美容外科は地方3院でも診療しますが、かいつまんでエピソードを述べましょうか。

100回目は私のターニングポイントである16年次から話題を再開します。その前の過去を要約したので、その後を要約して第100話を閉めます。

私は昭和62年、1987年に医師となりましたから、私は30年次を終えました。16年目からは医師としての後半生です。16年目にA美容外科大分院を開業し3年間、これが面倒な事ばかりでした。診療面だけではありません。これから詳述します。19年目に銀座美容外科医院に常勤として戻りますが、その際は一悶着します。3年後の途中から吉祥寺形成クリニックを継承して開設します。その頃父は亡くなります。結果として3年間は、主に銀座美容外科の患者さんを継いで診ていきました。それだけではやっていけないので閉めました。平成10年、2008年は22年次にこちらに移りました。もう10年目になりますが、患者さんが多くて、診療が面白くて、それなりに稼いでいますから、辞められません。58歳になりましたがまだまだ元気な限り続けたいと思います。そのような訳で次回後半生を再開します。