2017 . 7 . 28

美容医療の神髄-歴史秘話第101話-”口頭伝承”:美容整形屋と美容形成外科医”その76”「地方都市19:美容外科医は辛いよ!」

美容外科医は辛いよ!とはどうゆう意味でしょうか?。これから延々と書くエピソードを読みましょう。キーワードは”整形ゴロ”の暗躍です。

時は、私が医師16年目、平成14年、2002年にA美容外科を開設していた前後の話題でした。A美容外科グループの話題が地方中都市チェーン展開の話題に移りました。三院あるうちの一つ、松本院の話を始めたら信州大学形成外科を訪問した際の話題に移り、眼瞼下垂診療の中心人物である松尾教授との面談について書き始めたら、松尾教授の眼瞼下垂症診療における概念の解説に終始し始めました。これ迄に無く、話題がアッチコッチに跳んでしまい、計5回も費やしました。

今回から、やっと美容外科医の話しに戻ります。A美容外科は地方3院でも診療しますが、かいつまんで述べます。

A美容外科はK氏が運営していますが、実はスポンサーがいました。そうでなければ出来る筈がありません。でも彼は整形ゴロどころか半分本物のつまり準構成員でした。

整形ゴロの定義なんかある訳はないのですが、言葉通り取れば美容整形医の周りをごろついてうまい汁を吸おうとする奴です。昔から、(何度も言いますが、本邦では戦後高度成長期から美容整形が興隆しました。)美容整形医院はそもそも自由診療ですから、他の医療機関より単価が高く設定できます。手術がメインですから医療コストも他に比べて抑えられます。要は医師という人が頭と手と口で稼ぎます。周囲の人員はアシスタントをしますが、事務系は広告宣伝費用と収入のバランスを取るため必要です。昔カナクリなんかは、アポインターと宣伝マンである人員を電通から出向で何十人も雇いまとめて売り上げの50%も払っていました。アッそれなら、電通は整形ゴロの一種だと捉えてもいいかも知れません。昔銀座美容外科医院には男性の事務長がいました。事務主任は女(同居人)でしたから、カウンセラーの仕事に精を出しましたから、ゴロというよりは私に取っては敵に過ぎませんでした。事務長は何でも屋で、ゴルフの際は運転手もするし、銀座に飲みに行く際は米搗きバッタみたいに着いていきました。広告や経費計算は当初はまじめにしていましたが、やはり多額を触る様になると、(医療機関ですから現金払いです。)どうしても抜きたくなるようです。こうなるとゴロつきです。ある時いなくなりました。持っていったら辞めるのもゴロツキのやり口ですよね。

A美容外科はそもそもK氏が起ち上げたのですが、彼はコムロの宮崎院の事務長として雇われたのがこの世界に入るきっかけです。コムロ先生もK氏も宮崎出身だからの縁でしょう。K氏はコムロで美容整形のノウハウを身に着けました。手術はできませんが、カウンセリングから、広告戦略、スタッフのスキルアップ法までは学べます。そして彼はたぶん、宮崎でパクッたのでしょう。その2年前くらいに私に突然連絡してきました。私はコムロでのアルバイトの際に一回見掛けただけです。でも銀座美容外科に連絡すれば私の居所を掴めたのです。高田馬場駅(コムロの東京院の所在地)で待ち合わせて、近くの喫茶店に入るなりいきなり「辞めさせられました。」と切り出してきて、次は「宮崎で開業しますから、今度手伝ってくれません?。」「先生はこの世界で顔が広いから、いい先生を紹介して下さいよ。」と話し始めます。私は「バイトは銀座美容外科が手一杯だし、今は大和徳洲会病院で形成外科を立ち上げたばかりだから忙しいんだよ。」と半分乗り気を見せないでいるも、K氏はなおも粘り「先生将来は銀座美容外科継ぐんでしょ?。でも前に言っていたじゃないすか、銀座は古いから先が見えているって。私と組んで増やしていきましょうよ。」直接そんなこと言った覚えはないが、コムロにバイトに行っていた際に、そこの婦長に漏らしたことがあった。K氏の情報収集力の高さを感じました。私は「じゃあ銀座美容外科とのコラボレーション。うまくいったら将来は合併するのも念頭に入れて考えよう。」と閉めて、その時は細かいことは打ち合わせないで、次回銀座美容外科で父も交えて話し合うことにしました。

当時私は大和徳洲会病院の形成外科部長をしていましたから、銀座美容外科には週に1日半程度のアルバイトに行っていました。私の行く日に合わせて、後日銀座美容外科医院を訪問させました。K氏は同じことから切り出して、「将来は銀座美容外科のチェーン展開になる様に頑張って軌道に乗せます。」と決め手を打っていきます。父は「うーん!。僕は今の今まで、一人でやってきたし、いやあ~昔バイトというか弟子入りさせた奴が居たんだがあ~、3年間だっけ、ぜ~んぜんでききる様にならなかったなあ!。今は青山で皮膚科やっていたけど止めたぜ。カズ(私は森川一彦ですから子供のころからこう呼ばれていた。医師となってからは一彦先生と呼んでいた。10年目からは副院長と呼んでいた。)知ってるよな。ああ~熊本に戻ったらしいな。」私が4年目に熊本の病院に出向した際に前をよく通ったのを父に報告したのを勘違いしている。いつも父は話し出すとどんどん広がっていくのが常でまとまりがないのでした(私のブログの内容も似たものですかね?。父子は似るものです。)父はさらに続けます。「そもそも、美容整形は一人の医者が一人一人の患者さんを、つまり人を診る特別な科目なんだ。だから高尚なんだ。チェーン店っていうのは医者がは入れ替わり立ち代わり変わるだろう?。そんなやり方で患者いやクライアントを満足させられるかあ~。高い金払ってくれるんだから、真摯に診療しなきゃあ!」私は父がこう言いだすと読んでいました。でも別に反論はしません。そこは「じゃあ今は私は形成外科医局員で出向中だし、銀座美容外科出アルバイトしていても食えないし、Kさんのところでアルバイトから始めるよ!」とまとめました。K氏もそれ以上は突っ込まないで、後で私に「お父さんは厳しい人ですね。だから美容整形の黎明期から何十年もやって来られたんですね。」と感嘆する振りをして、「まあまずアルバイトをお願いします。」と言って別れました。

私はどこか決然としない気持ちを持ちました。要するに板挟みの気持でもありました。

突然歴史ブログを約1週間中断します。その間1回番外編を書きます。