2016 . 12 . 15

美容医療の神髄-歴史秘話第71話-”口頭伝承”:美容整形屋と美容形成外科医”その47”「相模原から全国へ編3:美容外科学」

その後私の14~15年次の形成外科医生活と、美容外科のアルバイト生活。銀座美容外科医院の行く末について書き始めます。

その前に、私の美容形成外科医として13年次については濃厚な時を過ごしました。もう一度反芻します。

基礎研究に専従して博士号(医学)の取得までこぎ着けました。そもそもUc教授が就任したのは、1997年9月、平成9年、私が38歳になり11年次の途中でした。当時私は茅ヶ崎徳洲会形成外科に部長として2回めの赴任をしましたが、私の赴任直後にまだ教授に就任する前のUc助教授が挨拶に来て、院長に「このたび教授に選ばれました。今後は私の下でこの者が働きます。即きましては、受託研究費をお願いしたいと思います。この者は院長先生にも私淑しておりますから、今後とも宜しくと言う意味です。」とか切り出すストレートな人です。私はそこも好きです。ですからその後も、事ある度に相談に乗ってもらいました。ちなみに博士号の取得はその翌年になります。

臨床的にはUc教授の下で大学病院で美容外科診療を軌道に乗せて行きました。元来北里大学形成外科という所は全国の大学病院形成外科の中でも美容外科に力を入れて来た有数の施設でした。開設時(昭和45年北里大学開学で46年形成外科開設)の初代教授は美容医療の先進国のUSA帰りです。USAでは形成外科と美容外科は同一科目ですから、彼は研修して来たつもりで、北里大学形成外科でも美容外科を診療しようと考えていました。細々として来ましたが、臨床経験の豊富な医師が育たない。それなりに出来る医師が育っても異動するか辞める。大学には患者が来ない。その頃には形成外科医局内に美容外科の担当医師が居ませんでした。ですから私は、ほとんど一から作り上げる様な状態で、それはそれで面白かったです。でも内心は、大学美容外科に患者を取られるのを忸怩たる想いでいました。でも、教授は考えていました。ある時銀座美容外科を訪ねて来て、私と父の前で「将来彼が(私)銀座美容外科医院を継いだら、医局から医師を派遣しましょう。それにその際にはお父さんには美容外科の客員教授も御願いするかも知れません。」等と夢を語りました。私も夢を描いていましたし、父も面白がっていました。後年にはチェーン店化も計る様な策を立てました。ずっと後に記します。

この年の私の教育の仕事は、結局美容外科診療が主体でした。教授が責任者ですが、診療方針は私が検討し、若い先生に教える。週一回の術前カンファレンスはみんなで検討会をするのですが、美容外科手術のプレゼンテーションは6年次のチーフレジデントがします。その際に予め私と彼で打ち合わせます。また、文献を渡して読み下しておかせて、予め私に対してプレゼンさせておいて勉強しているかを確かめておく、何しろ大学形成外科内に美容外科診療の経験者が他に居ないので、私が美容外科の教育担当となるしか無いのです。私は結構文献も集めていましたし、美容外科の勉強は臨床的にも為になるし、好きでした。父にもよく「お前は教授みたいだな!」と半分揶揄されていました。そんな訳で大学形成外科での美容外科教育は、私にとっても勉強の機会を得る事になったと思います。

この年で北里大学形成外科医局に入局して13年次。私は好むと好まざるに関わらず出向が多くマル一年大学に居たのは1年次と5年次以来でした。そして、教授がUc先生に変わってからは始めてでした。教授も就任してまだ2年も経っていません。私と教授の交流が深く、だから医局という集団に対してもその有用性と弊害を充分に理解を深めた一年でした。

ところで医局とは何でしょうか?。これまでも述べて来ましたし上に挙げました。臨床、教育、研究の三位一体とは、過去から変わりません。父もよく強調していました。Uc教授もです。でもこの年に研究に従事してこれらの連携にも考えが到りました。根源的にいって、医局というものは経済的にも、また制度的にも実体がありません。

要するに、大学には各診療科目に準じた講座単位があり、卒前教育の講義を何時限か充てがわれます。教授は講座の主宰者で教える内容と誰が教えるかを決める役目です。大学は教授を公募なら各科の教授の互選で選びます。ちなみに教授とは英語でProfesser ですが、言葉の通り教え授ける意味です。下の者は教授を助けるのが助教、助けるのが助教授、准じて教えるのが准教授という所で、他に助手は臨床や教育を手伝い、研究に於いては教授される者です。北里大学では6年次まではレジデントとされ、卒後教育を受けるだけの身分ですから、他のデュティーはお付き合いに過ぎません。全国的な制度では2年生までは前期研修医でローテーションしながら卒後教育を受けます。その後二年間は後期研修医として専門科にて卒後教育を受けます。この間は卒後教育を受けながら、臨床を手伝いながら学び、研究については触る程度です。

そして大学病院には各診療科目がありますが、講座に於ける要員が日常の診療の担当者です。各診療科目内にもさらに得意な専門分野がありますから、講義の担当も診療の担当も一応分かれています。つまり臨床と教育は教授の任用した医師団が担当します。とはいっても雇用するのは学校法人です。大学には、教授陣(教授の下の講師や助教、准教授等)を雇用する際に学術業績で閾を作っていますが、教授に推薦されないと雇用されません。ですから教授は医師を若い頃から育てて、業績を挙げさせていき集団を維持していかなければなりません。今では研修医は枠があり雇用するのは大学病院だけでは無いのですが、後期研修医は大学で専門的卒後教育を受けないと高度性が得られません。2004年までは研修制度が確立していませんでしたから、私達の世代は希望する診療科目=医局に1年次から入りました。

私は当初出身大学である北里大学形成外科という診療科目=医局で卒後教育を受けようと考えただけでしたが、医局は多岐のデュティーから成り立つと判って来ました。もう一度思い返せば、レジデント(研修医)は臨床教育を受けて、一人前の診療技術(外科系なら手術が主)を身に着けて、しかも、その認定として、各診療科目別の学会専門医に合格するまでの課程です。その後はその診療技術を持ってして、関連病院に出向して診療するか大学に残るかは雇用枠次第で人事的には運が左右します。もちろん適不適はあるので、教授陣が判断します。私は間違いなく臨床家に向いていると判断された様です。ところで大学卒業までの学業成績もリスト化されて医局に残っている様です。もちろん部外秘です。私の成績からすると、やはり大学の教授陣には向いていないと判断されても仕方ないと感じました。

ところが13年次に教授が研究員(大学助手)として大学に戻る機会を下さいました。Uc教授は就任して2年にも満たなかったのですが、もちろん生え抜きで、しかも2期の卒業生で、私が入局したときは講師として青年団長みたいに兄貴みたいに慕われていました。長年人事担当の医局長をしていましたから、毎年相談してきました。それまで臨床家として関連病院を充てがって来て貰っていたのに大学で研究する様にいわれて面食らった記憶があります。

何故かと今考えれば、二つあります。一つは13年次で研究員(助手)は定年ですから、私にとって最後のチャンスだという事。もう一つ、使い易い私を博士取得の為の研究に従事させたかった様です。博士の審査は大学院単位で行い授与します。審査員は教授数名ですが、各科目つまり医局の主任教授が主査院で、副査院を関係科目教授に依頼します。ですから、博士の取得は主任教授が概ねレールを引いています。学術的に博士に相応しい結果を得られるかはテーマ次第でもありますが、研究テーマを設定するのは教授にこれならいけるとお墨付きを貰う事です。そして教授としては博士を輩出すると業績に通じますし、貰う方は恩を感じます。当時教授はまだ博士を輩出していませんでしたし、研究テーマと設備の使用は教授がコーディネートしなければなりませんから、私はそれに乗せて貰ったともいえます。ある意味では時の運が左右したのです。医局はここまで繫がりを持つ集団なのだと感謝致しました。

13年次に研究院として医局員の一院として奉職出来た結果一つ上のレベルで学べただけでなく、組織の一員として貢献出来、さらに博士号の目処が立ち有意義な一年でした。さてその後の医局での立場はどうなるのか思案しました。教授と相談していくと、こうおっしゃいました。「医局員とは、教授の人事権で働く者です。お前さんは大学助手は定年だが、今後の任用は業績次第です。その間関連病院で診療しながら、業績を挙げれば講師になれるチャンスも来るかもしれない。とにかく関連病院を探して挙げるから、医局に残っていた方がいいでしょう。」前年12年次に銀座美容外科医院に出向させてもらっていたのに、経営が悪くて辞めたし、戻りたくもなかった私の希望を汲んでくれたのです。14年次も医局員として北里大学形成外科医局から出向する形を模索して下さいました。教授は「大和徳洲会病院が形成外科を開設したいそうだ。院長は茅ヶ崎と湘南鎌倉時代から懇意だし、近隣の大和市立病院外科部長は大学の元教授で懇意だが、形成外科を開設するつもりが無い代わりに徳洲会に作ったらいいと言っている。大学にも近いし家も近いだろ?。ここでどうだ?。」こうまでして私の為に手配して下さったのかと感激しました。また新たに形成外科を開設していくのは楽しみでもありましたし、一人で赴任ですから自由です。美容外科も開設して言いそうです。もちろん部長待遇で、条件も悪くありません。もう一つ、アルバイトとして面白い(本当は後年面倒な事になる)施設に関わり、教授も関わる様になって来たので私との繫がりは医局としても有用性があったと考えられました。これについては追々説明していきます。

やっと14年次の身の振り方に辿り着きました。大和徳洲会に形成外科・美容外科を開設し、部長として赴任する事になりました。博士取得まではまだ手順を得ます。長くなりましたので次回から14〜15年次の話しにします。