その後私の14~15年次の大和徳洲会病院での形成外科医生活と、美容外科のアルバイト生活。銀座美容外科医院の行く末について書き始めます。
大和徳洲会病院は200床に満たない病院ですが、九州の離島出身で関西を発祥とする徳洲会病院グループが関東に進出する際に茅ヶ崎、鎌倉の次に開設したアクティブな施設です。さらに三院はグループ化して、自前の医師をやりくりしたり、研修システム(公的研修制度では無い。)の下で新人医師から育てていく為の施設として、若い医師から上級の医師まで揃えていました。
大和徳洲会病院の院長はグループ内で育ったベテランで、私が茅ヶ崎に出向していた際には鎌倉に居て、私とも顔見知りの医師でした。その年になぜ形成外科を開設する事になったかは不明ですが、地域でニーズはあったのでしょう。そもそも、茅ヶ崎と鎌倉では形成外科を開設以来10年近く経っていて、有用性が認識されていたからでもあり、グループ三院に揃えたかったのかも知れません。もしかして北里大学形成外科からの売り込みもしてくれたのかも知れません。少なくとも、私にとっては大学も近いし、住居も近い。徳洲会グループなので知り合いの医師が多いし、私の茅ヶ崎での評判も伝わっていただろうからやり易いと思いました。勿論形成外科の新規開設ですから、一から始めるので面倒ではありますが、知ってる医師からは理解が得られるし、新規開設は開業の勉強にもなるから将来の銀座美容外科継承にも役立つと考えて張り切って赴任しました。
神奈川県大和市は人口も20万人程度で中都市ですが、当時は日産を始めとして多くの大小の工業施設も存在するため労務外傷も来院します。大和市は端っこに厚木基地がある戦後に出来た市です。進駐軍が使っていたため一部に歓楽街があったのですが今はほとんどありませんし、駐留兵も自衛隊も見かけません。その代わり大中小の工場が立地した為に一時は潤っていたのですが、日産も引いたし昨今は経済的に高くありません。またいわゆる移民を工員として多く雇った結果、二世三世が多く在住しています。特に南米に移民した日本人と現地人の二世以降が居着いています。今でもスーパーにいくとチャンポンで何語を話しているのか判らない、どこ人か判らない人をちょくちょく見かけます。
彼等は日本国籍の様で、日本の健康保険に入っていますから徳洲会病院にも受診します。したがって手指の労務災害が来院します。また彼等に限らず戦闘的な者、つまりヤンキー(南米人は北米人とは違うが出自は似ている)が多く、顔面骨骨折や、交通外傷も少なくありませんでした。当地には二次救急以上の病院は市立病院と徳洲会しか無く、特に市立病院は積極的に救急外傷を受け入れないために、徳洲会が最後の砦でした。市立病院では形成外科は標榜していませんし、医師も居ませんから、徳洲会病院は形成外科を診療すれば様々な疾患に対するニーズがあった筈でした。
もっとも、形成外科疾患の中で熱傷(やけど)、顔面骨骨折を含む顔面外傷、手指の外傷の救急疾患三本立て以外は、待機的治療です。出産直後に判る先天性疾患は出産した病院で治療されるか小児病院に紹介されるので、大和徳洲会には回って来ません。褥瘡(床ずれ)は多いのですが、経済的に生活的に困窮している環境では手術対象にはなりません。美容形成外科目的が主体となるほくろ等の手術、肌の治療も多くありません。その中で、眼瞼下垂患者を含む眼瞼の手術治療は近隣に施設が無いため掘り起こせるのでは無いかと考えました。
昨今の日本人は知性に欠ける人が多く、眼瞼の治療と言うと、すぐに美容整形と思い込む者が多い為に、形成外科的な機能目的の保険での手術治療を知りません。したがって逆に市民に啓蒙活動を行なえば、来院を促せるのでは無いかと考えました。市民講演を利用するのです。
そもそも徳洲会グループは、九州の離島出身の徳田虎雄医師が大阪で開設したのが始まりですが、彼は徳之島で弟を亡くした事から、各離島に救急疾患を診られるアクティブな病院を立てるのが夢でした。その為に政治活動も必要だったのです。また全国各地にも医療過疎地はあるので、地方都市で公的病院が貧弱な所に、根回しして救急疾患も診られる病院を開設していきました。その際も政治活動を要しました。また、雇う医師は大学病院をあぶれたり、薄給で辞めたりした医師を掬い取れば、安くても居着く医師を出来ると考えました。湘南三病院グループは典型的な養成施設でしたし、茅ヶ崎、大和、鎌倉の三市とも公的病院が救急を断るので有名な地域でした。
私が赴任したのは医師になって14年次、平成12年は2000年でしたが、徳田先生等が政党を作り国会議員となり、更に政治力を増していた頃でした。(今は皆さん知っての通り公職選挙法違反で捕まって失敗しました。)これも最近になってバレましたが、医療機関である各病院の職員は、徳田医師の発破の下に、政治活動に協力していたのは公然の事実でした。選挙のある年は各病院の職員が鹿児島一区に応援に行ってしまい、あたかも田んぼが刈り取られる様に院内の枢要な職員が居なくなるのでした。これも公職選挙法違反ですが、当時は抜け道を使っていました。
政治活動の一貫として、各地方都市では日常的に有権者を組織する必要があります。何をすれば票を固められるかと言うと、医療機関に掛かってもらうか、理解してもらって知り合いを紹介してもらう方法等が利用できます。そのために定期的に市民を集めて医療の知識を講演するのです。よく製薬会社と医師が結託して開催しているやつですね。これを徳洲会病院単位で募るのです。そこでは来場者の名簿を作り、会場の廊下で票固めも併施します。私はそれと知りながら、形成外科医療の広告啓蒙活動として、医療講演を2ヶ月に一回程度行ないました。テーマは二つ、診療科目として形成外科の理解を得る事と美容外科と美容整形の差異を説明する事。もう一つは眼瞼下垂を中心に眼瞼形成術の講演でした。
これが毎回数十人の聴衆だけなのですが、受けましたし、反応も多かったのです。真面目に判り易く説明すれば、一般人も理解してニーズは広がりました。そもそも大和市は首都圏地方都市ですから、壮年者が多く、後天性腱膜性眼瞼下垂症患者と、一重瞼者が加齢で悪化する皮膚性眼瞼下垂症患者が多数名内存していました。講演会場にも必ず存在しました。経済的に低い大和市圏内に美容外科・形成外科医院は一つも無く、また地域的に東京中心部には遠い為、美容外科の診療所には縁遠く、眼瞼形成術の対象となる患者さんは多く残っていた訳です。
折よく、信州大学形成外科の松尾清教授が学会で眼瞼下垂の研究発表を繰り返し、マスコミに取り上げられて医療者として引っ切りなしに出演して講演し始めた時で、私は彼と仲がいいので講演内容も利用する価値がありました。そして彼は、学会で会う度に言いました「眼瞼形成術は重瞼術も含めて、よく勉強した形成外科医が保険診療で行なうべきですよ!」「森川先生も啓蒙して下さい。」だったら利用させてもらう手があります。その結果、狭い大和市での医療講演でさえ充分に手応えがありました。
赴任半年後には眼瞼形成術の患者さんが増えて、毎週数例の手術枠が埋まり始めました。今でも私の好きな分野ですし、父である銀座美容外科医院の森川昭彦は美容整形の世界でも重瞼術の切開法の第一人者?として名が通っていたので(昭和40年代の芸能人はほとんど彼の手による)、少しでも近づけて楽しかったことを思い出します。ちなみに病院ですから、約半数の患者さんは数日の入院をします。おかげさまでベッドが埋まって病院も悦んでくれました。私は形成外科の一人部長ですから、毎月の科目別損益発表会議にも出席します。開設当初は勿論赤字でしたが、赴任半年後には何とか収支を合わせることが出来てホッとしたものです。
診療行為に付いては、他にも様々な形成外科の対象を掘り起こしましたが、三年前の茅ヶ崎徳洲会病院形成外科・美容外科診療の延長です。14・15年次は形成外科として脂が乗って来て、何でもしたい年頃ですし、その前の1年間は研究員として臨床的診療行為を絞っていたので、この2年間は水を得た魚の様に手術をしました。
他に話題として、臨床研修制度への方針作りを手伝いました。また臨床面では他科の医師とのコラボもしてみて楽しかったし、違う出自の医師との交流は医師としての人生を豊かにしてくれました。さらに変な奴(医師)とも出会いました。ところで眼瞼形成術の臨床経験は学会活動にも役立ちました。父との交流にもです。JSASでの活動はこの年が最高潮でした。私の預かっていた十仁札幌院を閉めても、JSASへのスタンス移動は継続していました。日本美容外科医師会でのクーデターはその翌年のことでした。その辺りから次回=来年に再開します。